02.取れなかった手
舞踏会の日は、朝から落ち着かなかった。
楽しみで、ではない。
「まだ終わらないの?」
「もう少しですので、動かないでくださいませ」
鏡の前に座らされてから、いったいどれほど経ったのだろう。
侍女が私の髪を少しずつすくい上げ、丁寧に形を整えていく。別の侍女は今夜身につける装飾品を確認し、さらにもう一人がドレスの皺を伸ばしていた。
着替えるだけなら、こんなに時間はかからないはずなのに。
「いつもの髪型では駄目なの?」
「今夜は王宮の舞踏会でございますから」
「髪なんて、誰もそんなに見ないでしょう」
「見ます」
即答された。
「お嬢様も、もう少しご自身が伯爵令嬢であることを自覚なさってくださいませ」
「自覚はしているわよ」
「でしたら、先ほどから髪飾りを触るのをおやめください」
伸ばしかけた手を止める。
鏡越しに侍女と目が合った。
「……分かったわ」
渋々、膝の上へ手を戻した。
今夜のために仕立てられたドレスは、青みを帯びた淡い緑色だった。裾へ向かって柔らかな布が幾重にも重なり、少し身じろぎするだけで軽やかに揺れた。胸元や袖口には白い小花の刺繍が控えめに施されていた。
いつもより丁寧に結い上げられた髪には、小粒の真珠がいくつか挿されている。
鏡の中にいるのは、いつもの私とは少し違う人のようだった。
綺麗だとは思う。
ただ、ここまで時間をかけなければならない理由は、やっぱりよく分からない。
「クラリッサ」
呼ばれて振り返る。
支度を終えたお姉様が部屋へ入ってきた。
「わあ……」
思わず声が出た。
お姉様は淡い藤色のドレスをまとっていた。
栗色の髪は上品に結い上げられ、耳元には小さな宝石が揺れている。華美な装いではないのに、立っているだけで自然と目を引いた。
「お姉様、綺麗ね」
「あら。ありがとう」
お姉様は嬉しそうに笑った。
「あなたも綺麗よ」
「ドレスはね」
「クラリッサ」
「分かってるわ。今夜くらい大人しくしてる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切りなさい」
呆れたように言われ、私は笑った。
こうして並ぶと、三つ年上のお姉様は、私よりずっと大人に見える。
けれど、それは昔からだった。
私は鏡の中の自分へ視線を戻した。
悪くない。
少なくとも、今夜一晩くらいなら伯爵令嬢らしく見えるだろう。
それで十分だと思っていた。
◇
王宮の大広間へ足を踏み入れた途端、思わず歩みが鈍った。
広いはずの大広間も、今夜ばかりは狭く感じるほどだった。色鮮やかなドレスや正装姿の紳士たちが行き交い、壁際にもいくつもの人の輪ができている。
楽団の奏でる音楽に、話し声が重なり、時折どこかから明るい笑い声が上がった。
頭上には大きな燭台がいくつも吊られ、何百もの灯りが広間を照らしている。金色の光を受けて、髪飾りや首飾りが人の動きに合わせてちらちらと瞬いた。
こんなに多くの人が一度に集まっているところを見るのは、久しぶりだった。
「お姉様」
「何?」
「私、あちらにいるわ」
私は迷わず壁際を指差した。
「駄目よ。まだ何もしていないでしょう」
「これからすることが分かっているから言っているの」
お姉様に腕を取られた。
「まずはご挨拶でしょう」
「お父様とお母様がしてくれるわ」
「あなたもするのよ」
「……帰りたい」
「来たばかりよ」
お姉様に連れられ、両親とともに何人もの貴族へ挨拶して回った。
顔と名前を一致させるだけでも一苦労だ。
お父様と話す年配の伯爵に、お母様と親しげに話す夫人。
以前どこかのお茶会で会った気がする令嬢。
きちんと笑って、礼をして、当たり障りのない言葉を交わす。
そうしてようやく解放された頃には、まだ一曲も踊っていないのに疲れていた。
「もういいでしょう?」
「何が?」
「十分、伯爵令嬢をしたわ」
「舞踏会はこれからよ」
「私にとってはもう終わりでもいいわ」
お姉様がため息をついた。
私は給仕から飲み物を受け取り、ようやく壁際へ逃れる。
これなら庭で本でも読んでいたほうがよほど楽しい。
けれど、料理は悪くなかった。
小さく切り分けられた菓子を見つけ、どれを食べようか眺めていると、声をかけられた。
「クラリッサ嬢」
振り返ると、見覚えのある青年が立っている。
以前、お父様に紹介された子爵家の令息だった。
「ごきげんよう」
覚えたとおりに礼をする。
少し会話を交わしたあと、青年が手を差し出した。
「よろしければ、一曲お願いできますか?」
「え」
思わず差し出された手を見る。
踊る? 今から? 大勢の前で?
「申し訳ありません。少し疲れてしまって」
「そうでしたか」
「ええ」
にこりと笑う。
青年は残念そうにしながらも、すぐに引き下がってくれた。
その背中を見送って、胸を撫で下ろす。
やっぱり練習なんて必要なかった。
踊りたくなければ断ればいいのだ。
満足して菓子へ手を伸ばそうとしたところで、広間の一角が少しだけ騒がしくなった。
何となくそちらを見ると、手が止まった。
アルフがいた。
最初は、そうだと気づくまでに少し時間がかかった。
見慣れているはずなのに、濃紺の夜会服を身につけたアルフは、いつもより背が高く見えた。金色の髪も綺麗に整えられ、胸元には公爵家を示す意匠が飾られている。
彼の周りには、何人もの人がいた。
年長の貴族から声をかけられれば足を止め、何かを尋ねられれば穏やかに答える。令嬢たちから挨拶されても、自然な笑みを浮かべて応じていた。
私は少し離れたところから、その様子を眺めた。
アルフって、あんな人だったかしら。
公爵家の嫡男だということは知っている。いずれ公爵家を継ぐことも。
そんなことは、幼い頃から何度も聞いてきた。
けれど私にとってのアルフは、庭の木陰で本を読んでいる人だった。
私が先生から逃げていけば、呆れながらも隣を空けてくれる。
アルフの菓子を取れば文句を言うくせに、本気で怒ったことはない。
馬で競争すれば、私が勝つまで何度でも付き合ってくれる。
目の前にいる青年と、私の知っているアルフが、うまく重ならなかった。
不意に、彼がこちらを向いた。
目が合うと、アルフの表情がふっと緩んだ。
それまで話していた相手へ一礼すると、人々の間を抜けて、まっすぐこちらへ歩いてくる。
何人もの人が、そんなアルフを目で追っていた。
いつものことのはずだった。
我が家を訪ねてくれば、アルフは私を見つけて声をかけてくる。
けれど、ここはいつもの庭ではない。
なぜか落ち着かなくなって、私は手にしていたグラスを持ち直した。
何となくドレスへ目を落とし、皺が寄っていないことを確かめた。
それから、髪にも触れそうになってやめる。
朝から侍女たちがあれだけ時間をかけて整えてくれたのだから、まだ崩れてはいないはずだ。
そこまでしてから、ふと手を止めた。
……何を気にしているんだろう、私は。
「クラリッサ」
「アルフ」
いつものように名前を呼ばれ、少しだけ肩の力が抜けた。
近くで見ても、やっぱりいつもとは違う。
私は彼を上から下まで眺めた。
「何?」
「……ちゃんとしてる」
「どういう感想?」
「だって、アルフなのに」
「僕を何だと思ってるの?」
いつもの調子で返されて、今度こそほっとした。
アルフも私の姿を見る。
「クラリッサも綺麗だね」
「そうでしょう?」
「自分で言うんだ」
「今日は朝からずっと大変だったのよ。これくらい言ってもいいでしょう」
「確かに」
アルフの口元が緩む。
いつもなら聞き流していたはずの「綺麗」という言葉が、妙に耳に残った。
「もう踊った?」
「まさか」
「一曲も?」
「ええ」
「せっかく練習してたのに」
「逃げたわ」
「知ってる」
アルフは少し笑ったあと、私の前へ手を差し出した。
「じゃあ、踊る?」
「え?」
「一曲」
差し出された手と、アルフの顔を交互に見る。
「嫌よ」
考えるより先に答えていた。
「即答だね」
「だって、足を踏むもの」
「踏まれてもいいよ」
「私は嫌なの」
こんなに大勢が見ているところで、何度も間違えるなんて耐えられない。
「それに、アルフまで恥ずかしいでしょう」
「僕は別に気にしないけど」
「私が気にするの」
「そっか」
アルフは残念そうに笑ったものの、それ以上は誘わなかった。
「気が変わったら言って」
「変わらないわよ」
「どうかな」
何よ、その言い方。
言い返そうとしたところで、お姉様が戻ってきた。
「アルフ」
「シャーロット」
「いらしていたのね」
「少し前に着いたところだよ」
二人が話し始める。
その姿を眺めながら、私は飲み物を口にした。
やっぱり二人とも、こういう場所に馴染んでいる。
「シャーロット」
やがてアルフが手を差し出した。
「一曲、どう?」
「ええ。喜んで」
お姉様はためらうことなく、その手を取った。
二人が広間の中央へ向かう。
私は何となく、その後ろ姿を見送った。
音楽が変わった。
いくつもの男女が向かい合い、踊り始める。
昔から、二人が踊るところは何度も見たことがある。
両家の集まりでダンスの練習をするときも、私はすぐに嫌になって椅子へ逃げ、二人が踊るのを眺めていた。
だから、珍しいものではない。
そのはずだった。
「……あれ?」
小さく声が漏れた。
アルフがお姉様の手を取っている。
お姉様は背筋を伸ばし、彼の動きに合わせて軽やかに足を運ぶ。
二人とも、綺麗だった。
アルフはもう、庭で私とふざけている少年には見えない。
お姉様も、私を叱ってばかりの姉ではなかった。
一人の青年と、一人の令嬢。
そんなふうに見えた。
「あちら、公爵家のご子息と伯爵家のご令嬢でしょう?」
近くにいた夫人たちの声が耳に入る。
「まあ、お似合いですこと」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
何だろう。
私はもう一口、飲み物を口にする。
別に、何もおかしくない。
アルフとお姉様は幼馴染だ。
二人ともダンスが上手なのだから、一緒に踊ることだって珍しくない。
アルフがお姉様へ笑いかける。
お姉様も楽しそうに笑い返している。
目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
さっきまで、アルフはここにいた。
あんなにたくさんの人に囲まれていたのに、私を見つけてこちらへ来てくれた。
そして、私に手を差し出してくれた。
『じゃあ、踊る?』
私は断った。いつものように。
だって、踊りたくなかったから。
それなのに。
「……踊ればよかった」
口に出してから、自分で驚いた。
どうして? ダンスなんて嫌いだ。
今だって、上手になりたいとは思わない。
けれど、アルフとなら。
一曲くらい、踊ってみたかった。
やがて曲が終わり、二人が礼を交わしてこちらへ戻ってくる。
「クラリッサ」
お姉様の頬は少しだけ上気していた。
「やっぱり踊ると楽しいわね」
「……そう」
「どうしたの?」
「何でもないわ」
アルフが私を見る。
「疲れた?」
「別に」
「さっきより元気がないけど」
「気のせいよ」
自分でも、どうしてこんな気分になっているのか分からない。
お姉様が私の顔を覗き込んだ。
「クラリッサも踊ればよかったのに」
「私はいいの」
「アルフに誘われたのでしょう?」
「どうして知ってるの?」
「見えていたもの」
アルフがもう一度、私へ手を差し出した。
「じゃあ、今度こそ踊る?」
心臓が跳ねた。
さっきと同じ誘い。
なのに今度は、すぐに嫌とは言えなかった。
差し出された手を見る。
取ってしまえばいい。
アルフは足を踏んでも構わないと言っている。
たった一曲。失敗したって、笑ってくれるだろう。
そう思うのに。
ふと、さっきまで彼の隣にいたお姉様が目に入った。
綺麗だった。
アルフの隣で、お姉様は少しも気後れすることなく踊っていた。
それに比べて私は。
練習から逃げてばかりで、簡単なステップさえ間違える。
そんな自分がアルフの隣に立つところを想像した途端、手を伸ばせなくなった。
「……いい」
「クラリッサ?」
「今日は踊らない」
アルフの手から目を逸らす。
「そっか」
彼はそれ以上何も言わず、手を下ろした。
その顔が少し残念そうに見えた。
やがて知り合いらしい青年から呼ばれ、アルフは私たちから離れていった。
私はその背中を見送った。
人の間へ入れば、すぐに彼の周囲には人が集まる。
さっきは、あそこから私のところへ来てくれたのだ。
そう思うと、また胸の奥が落ち着かなくなった。
「クラリッサ?」
お姉様に呼ばれる。
「何?」
「本当にどうしたの?」
「……何でもない」
そう答えて、私はお姉様を見る。
綺麗に整えられた髪。まっすぐな姿勢。
さっきまで踊っていたのに、ドレスの裾にも乱れはない。
昔から知っている。
お姉様は、私よりずっと立派な淑女だ。
嫌だからと逃げたりせず、何度失敗しても練習してきた。
だから、あんなふうに踊れる。
私だって、同じように教えてもらっていた。
同じだけ、学ぶ時間はあった。
それなのに私は、嫌だと言って逃げてきた。
お姉様はお姉様。私は私。
それでいいと思っていたのに、今夜初めて、お姉様が羨ましいと思った。
私も、あんなふうにアルフと踊りたかった。
差し出された手を、迷わず取れたらよかった。
アルフの隣で、堂々と顔を上げていられたらよかった。
次に手を差し出されたときは。
もう、逃げたくない。
◇
屋敷へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
自室へ戻り、侍女に手伝ってもらってドレスを脱ぐ。
髪をほどいてもらうと、ようやく頭が軽くなった。
いつもなら、すぐに寝台へ飛び込むところだった。
けれど今夜は眠れる気がしない。
「少し、お姉様のところへ行ってくるわ」
「もう遅いお時間ですが」
「少しだけよ」
部屋着の上からガウンを羽織り、廊下へ出た。
お姉様の部屋は、同じ階にある。
扉の前で立ち止まり、軽く叩く。
「はい」
「お姉様。私」
「クラリッサ?」
ほどなくして扉が開いた。
お姉様もすでに部屋着へ着替えていた。結い上げていた髪はほどかれ、肩へ流れている。
「どうしたの、こんな時間に」
「……お願いがあるの」
「お願い?」
お姉様が不思議そうに首を傾げる。
私は一度、口を閉じた。言うのが少し恥ずかしい。
今朝までの自分が聞いたら、きっと笑うだろう。
それでも、もう一度アルフから手を差し出されたときには、今日みたいに断りたくなかった。
「私に、ダンスを教えて」
お姉様が目を瞬いた。
「あなたが?」
「そんなに驚かないでよ」
「だって、あれだけ嫌がっていたでしょう?」
「分かってるわよ」
お姉様はしばらく私を見つめた。
「どういう心境の変化?」
聞かれて、私は視線を落とした。
自分でも、まだうまく説明できない。
ただ。
「今度アルフに誘われたら」
昼間なら、こんなことは絶対に言わなかった。
「断りたくないの」
お姉様が黙った。
恐る恐る顔を上げる。お姉様は私を見つめていた。
やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
「分かったわ」
「本当?」
「明日から、一緒に練習しましょう」
「ありがとう、お姉様」
ほっと息を吐く。
するとお姉様が付け加えた。
「ただし、途中で逃げるのは禁止よ」
「え」
「教えてほしいのでしょう?」
「……そうだけど」
「だったら最後までやりなさい」
少しだけ後悔したけれど、今夜アルフと踊るお姉様を見ていたときの気持ちを思い出した。
私は小さく息を吸った。
「分かったわ」
自分からそう答えたのは、初めてだった。




