01.淑女教育は嫌いです
私は今日も、淑女教育から逃げ出した。
「クラリッサお嬢様!」
背後から教育係の声が飛んでくる。
聞こえないふりをして、庭園へ続く回廊を駆け抜けた。磨き上げられた床に靴音が響き、途中ですれ違った侍女が目を丸くする。
「お嬢様、廊下を走ってはいけません!」
分かっている。淑女は廊下を走らない。教師を待たせたりもしない。
ましてや、ダンスの練習が嫌だからといって、休憩でもないのに部屋から逃げ出したりはしない。
そのくらい、もう何百回と聞かされていた。
けれど、分かっていることと、できることは別の話だ。
庭園へ飛び出すと、初夏の風が頬を撫でた。屋敷の中より、ずっと息がしやすい。
白い薔薇の垣根に沿って進み、庭園の奥へ向かう。目指すのは、枝を大きく広げた一本の楡の木だった。
幼い頃から、何度も逃げ込んできた場所だ。
屋敷からは楡の根元が見えにくく、そこには腰掛けるのにちょうどいい平らな石がある。
今日もそこでしばらく時間を潰そうと思っていた。
「やっぱり来た」
しかし、すでに先客がいた。
今日は我が家へ遊びに来ていたアルフが、楡の木の下で本を読んでいる。
柔らかな金髪が木漏れ日を受けて淡く光り、濃紺の上着をきちんと着込んだ姿は、庭の木陰には少し不似合いだった。
「アルフ」
私は彼の隣まで歩いていき、そのまま石へ腰を下ろした。
「今日は早かったね」
「何が?」
「逃げてくるのが」
その言葉に少し口を尖らせる。
「逃げてないわ。休憩よ」
「始まって十五分くらいじゃない?」
どうやら時間まで把握されていたらしい。
「十分よ」
「もっと早かった」
アルフが本を閉じる。
幼い頃から見慣れた、呆れたような笑みが浮かんでいた。
「今日は何?」
「ダンス」
「ああ」
「その納得した顔、何よ」
「いつもダンスの日は早いから」
「嫌いなのよ。あれ」
私は靴のつま先を見下ろした。
「先生の足を二回も踏んだわ」
「十分で?」
「先生が悪いの」
「どうして?」
「私が足を出すところに、自分の足を置くから」
少し考えるような間を置いて、アルフが首を傾げた。
「たぶん逆だと思うよ」
むっとして、アルフの腕を叩く。
彼は避けることもなく笑った。
「アルフはいいわよね。ダンスが上手だもの」
「上手ってほどじゃないよ」
「私よりは上手でしょう」
「比較する相手が悪すぎない?」
「失礼ね」
もう一度叩こうとしたら、今度は笑いながら避けられた。
アルフは公爵家の嫡男で、私より二つ年上だ。お父様同士が若い頃から親しく、物心ついた頃にはもう、お姉様と私とアルフの三人で遊ぶのが当たり前になっていた。いつから彼をアルフと呼ぶようになったのかも覚えていない。
「クラリッサ」
お姉様の声が聞こえてきて、私は肩を跳ねさせた。
庭園の小道の向こうから、淡い藤色のドレスに身を包んだお姉様が近づいてくる。
栗色の髪は綺麗に結い上げられ、背筋もまっすぐ伸びている。急いでいるはずなのに、裾さばき一つ乱れない。
「見つかった」
「見つかるに決まっているでしょう」
お姉様は私の前で足を止めた。
「先生がお探しよ」
「お姉様。妹が可愛いなら、見なかったことにして」
両手を合わせて頼んでみたけれど、お姉様は首を横に振った。
「可愛い妹だから、連れ戻しに来たのよ」
「可愛い妹の意思も尊重して」
「その可愛い妹が将来困らないようにするのも、姉の役目でしょう?」
言いながら、お姉様はアルフへ軽く頭を下げた。
「ごきげんよう、アルフ」
「こんにちは、シャーロット」
「クラリッサを匿わないでくださる?」
「僕は何もしてないよ。勝手に来たんだ」
「裏切り者」
「事実だろう?」
悪びれる様子もなく、アルフは閉じた本を膝の上へ置いた。
お姉様は小さくため息をつくと、楡の木のそばに置かれた長椅子へ腰を下ろした。ドレスの裾を整え、背筋を伸ばしたまま座る。
同じ伯爵家で生まれ育った姉妹なのに、どうしてこうも違うのだろう。
お姉様は昔から、何をやらせてもそつがない。
ダンスの練習から逃げたことなど一度もないし、礼儀作法の教師に叱られているところもほとんど見たことがなかった。
もっとも、それを気にしたことはない。
お姉様はお姉様で、私は私なのだから。
「今日はダンスでしょう?」
お姉様に聞かれ、私は顔をしかめた。
「そうよ」
「だったら戻りなさい」
「嫌」
即答すると、お姉様の眉間にわずかに皺が寄った。
「来月は舞踏会もあるのよ」
「踊らないもの」
「一曲くらい踊るでしょう?」
私は楡の幹へ視線を逸らした。
「壁際にいるわ」
「何のために舞踏会へ行くつもりなの?」
「料理を食べるため」
お姉様がじっと私を見る。
「冗談よ」
半分くらいは。
お姉様は呆れたようにため息をついた。
「少しくらい真面目に練習したらどうなの?」
「踊れなくても困らないわ」
「社交界へ出るようになれば困るでしょう」
「そのとき考える」
「そのとき急に踊れるようにはならないのよ」
「じゃあ踊らない」
言い切ると、お姉様が額に手を当てた。
ふと隣を見ると、アルフの口元が緩んでいる。
「何よ」
「いや。変わらないなと思って」
「だって必要ないもの」
「ダンスが?」
私は首を横に振った。
「ダンスも、刺繍も、楽器も。全部」
「全部?」
「最低限できれば十分でしょう?」
私は指を折りながら数えた。
「挨拶はできる。食事だって普通にできる。お茶も零さないし、ドレスを着て歩くこともできるわ」
「ずいぶん低い基準ね」
お姉様は私が折った指先へ目を落とした。
「生きていくには十分よ」
「淑女として生きていくのよ?」
「淑女だって人間でしょう」
アルフが吹き出した。
「アルフまで笑わないで」
「ごめん。でも、クラリッサらしい」
「お姉様みたいに、何でも上手にできなくたって困らないわ」
お姉様は怒るでもなく、少し困ったように笑った。
「あなたは昔からそうね」
「いいでしょう?」
「今のうちはね」
「大人になってもよ」
私は迷わず答えた。
「結婚したって変わらないわ」
アルフがこちらを見る。
「結婚するんだ?」
「いつかはするでしょう。たぶん」
「ずいぶん曖昧だね」
「だって、まだ相手もいないもの」
アルフは閉じた本の端を指でなぞった。
「どんな人がいいの?」
私は少し考える。
「私に淑女らしくしろって言わない人」
「それが一番?」
「大事よ。ダンスが下手でも怒らなくて、刺繍ができなくても困らなくて、お茶会へ行きたくないと言ったら一人で行ってくれる人」
「ずいぶん注文が多いね」
考えているうちに、もう一つ思いついた。
「あと、一緒に馬に乗ってくれたら嬉しいわ」
「急に具体的になった」
「馬は大事だもの」
アルフは少し考えるように視線を落とした。
「つまり、そのままのクラリッサでいいって言ってくれる人?」
「そう!」
私は大きく頷いた。
「私を変えようとしない人がいいわ」
「なるほどね」
アルフはそれだけ言った。
その横で、なぜかお姉様がアルフの顔を見ている。
「何?」
私が尋ねると、お姉様はすぐにこちらへ視線を戻した。
「何でもないわ」
「変なの」
首を傾げる私をよそに、お姉様は長椅子から立ち上がった。
「それより、そろそろ戻りましょう」
「嫌よ」
「先生をこれ以上待たせてはいけません」
座ったまま粘ってみる。
「もう少しだけ」
「駄目」
「お姉様」
「駄目です」
お姉様はこういうところでは絶対に折れない。
私は助けを求めてアルフを見る。
「アルフ」
「僕を巻き込まないで」
「少しくらい匿ってくれてもいいでしょう?」
「先生に嘘をつくの?」
「聞かれたら、知らないって」
「それを嘘って言うんだよ」
「役に立たない幼馴染ね」
「ひどい言われようだな」
アルフは困ったように肩をすくめた。
そのとき、遠くから再び声が聞こえた。
「クラリッサお嬢様!」
私は立ち上がった。
「まずい」
「クラリッサ。戻りなさい」
「嫌!」
「どこへ行くの?」
アルフは面白そうに私を見ている。
「もっと奥!」
「まだ逃げるつもり?」
「捕まるまでは逃げるわ!」
ドレスの裾を持ち上げ、私は駆け出した。
「クラリッサ! 裾をそんなに持ち上げないの!」
背後からお姉様の声が飛んでくる。
「走らなかったら捕まるでしょう!」
「そういう問題ではありません!」
アルフの笑い声まで聞こえてきた。
私は振り返らず、そのまま庭園の奥へ駆けていく。
ダンスなんて踊れなくてもいい。
立派な淑女になんて、ならなくてもいい。
このときの私は、本気でそう思っていた。




