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04.前とは違う私

 立派な淑女になりたい。

 そう口にしてから、私の毎日はずいぶん忙しくなった。


「クラリッサお嬢様。もう少し背筋を伸ばしてくださいませ」

「伸ばしているわ」

「先ほどより曲がっております」

「……これでどう?」

「よろしいでしょう」


 ダンスの練習だけなら、まだよかった。

 歩き方や立ち方、座り方、お茶の淹れ方、社交の場での会話。以前から習っていたものばかりなのに、真面目に取り組んでみると、覚えることはいくらでもあった。


 そのうえ、刺繍とピアノまである。


「痛っ」


 針先が指に刺さり、思わず手を引っ込めた。

 指先に小さな赤い点が浮かぶ。


「もう嫌……」


 呟いてから、私は口を閉じた。

 以前なら、ここで終わりだった。

 針を置き、椅子から立ち上がって、適当な理由をつけて部屋を出る。


 けれど今日は、刺繍枠へ目を戻した。

 布の上には、小さな花が途中まで縫われている。


 お姉様が作った見本とは、似ても似つかない。


「先生」

「はい」

「ここの花びら、どうしたらもう少し綺麗になる?」


 尋ねると、先生が一瞬黙った。


「……何?」

「いえ。こちらは糸を強く引きすぎております。もう少し力を抜いてくださいませ」

「こう?」

「ええ。先ほどより綺麗です」

「本当?」


 言われたとおりに針を通す。

 確かに、今度は少しだけ形が整った。

 もう一針縫う。その次も、教えられたとおりに針を通した。

 気づけば、指を刺したことなど忘れていた。



 ダンスの授業が終われば、時間の合う日はお姉様にも練習相手になってもらった。


「そこ、少し早いわ」

「また?」

「焦らなくても、曲は逃げないわよ」

「分かってるけど」

「もう一度やる?」

「もちろん」


 自分の口から迷いなくそんな言葉が出ることにも、少しずつ慣れてきた。

 最初の頃は、授業が終わったあとまで練習するなんて苦行でしかなかった。


 けれど、昨日できなかったことが今日はできる。

 何度も間違えていたところで、足が自然に動く。

 それは思っていたよりも嬉しいことだった。


 一曲を最後まで踊り終える。


「どう?」

「ずいぶんよくなったわ」

「本当?」

「ええ。少なくとも、相手の足を何度も踏むことはなさそうね」

「そこまで?」

「最初がひどすぎたのよ」

「お姉様は一言余計だわ」


 文句を言いながらも、頬が緩む。

 お姉様が笑った。


「楽しくなってきた?」

「……少しだけ」

「あれほど嫌がっていたのに」

「ダンスが好きになったわけじゃないわよ」

「そう?」

「できるようになるのが楽しいの」


 口にして、自分でも納得した。

 たぶん、それだ。

 ダンスそのものが好きになったわけではない。

 刺繍だって、今でも面倒だと思う。

 ピアノの練習も、長く続けば逃げたくなる。


 それでも、前より少しうまくできるようになると嬉しい。


「今まで、どうしてこんなに嫌だったのかしら」

「できないことばかりだったからじゃない?」

「そうかも」


 できないから面白くなくて、面白くないから逃げる。そうして逃げているから、いつまで経ってもできるようにならない。

 ずっと、それを繰り返していたのかもしれない。


「でも、まだお姉様には全然追いつけないわ」

「私に追いつく必要なんてある?」

「あるわよ」

「どうして?」

「だって――」


 言いかけて、口を閉じた。

 舞踏会でアルフと踊っていたお姉様を思い出す。

 あんなふうになりたい。


 アルフの隣で、堂々としていたい。

 それが始まりだった。


「……目標は高いほうがいいでしょう?」


 誤魔化すように言うと、お姉様は少しだけ笑った。


「そういうことにしておくわ」

「何よ」

「何でもない」


 最近のお姉様は、時々こういう顔をする。



 それからしばらくして、お母様とお姉様とともに、以前にも訪れた侯爵夫人のお茶会へ招かれた。


 前回、私はほとんどまともに会話を続けられなかった。

 だから少し緊張していたのだけれど。


「クラリッサ様は乗馬がお好きなのですって?」

「ええ。領地へ戻ったときは、よく馬に乗ります」

「まあ。私の娘も最近習い始めたのよ」

「そうなのですか? 最初は鞍の上で姿勢を保つだけでも大変ですよね」

「そうそう。翌日は身体中が痛いと言っていたわ」

「私も初めはそうでした」


 侯爵夫人が笑う。

 そこで会話が途切れそうになって、私は少し考えた。

 以前なら、ここで「そうですね」と笑って終わっていただろう。


「お嬢様は、どんな馬に乗っていらっしゃるのですか?」

「栗毛の牝馬よ。とても大人しい子なの」

「それなら、初めて乗るには安心ですね。私が最初に乗せてもらった馬も、とても穏やかな子でした」

「あら、そうなの?」

「ええ。今乗っている子は少し気が強くて。慣れるまでは何度も振り回されました」

「まあ」


 侯爵夫人が楽しそうに笑った。


「娘が聞いたら喜びそうだわ。周りには乗馬をする令嬢があまりいないものだから」

「でしたら、今度お会いした折に、ぜひお話ししてみたいです」

「ええ。きっと喜ぶわ」


 会話が続いた。それだけのことなのに、胸の奥が少し弾む。

 以前の私は、何を話せばいいのか分からなくなると黙っていた。


 でも、何も特別な話をする必要はなかった。

 相手の話を聞いて、少し尋ねて、自分のことも少し話す。

 それだけで、会話は続いていく。


 向かいに座っていた令嬢にも話を振ってみる。

 彼女が好きだという音楽の話は、まだ私には詳しく分からなかった。

 けれど、分からないなら尋ねればいい。

 そうすると、相手は嬉しそうに教えてくれた。


 帰りの馬車に乗ると、私はすぐにお姉様を見た。


「お姉様」

「何?」

「今日、どうだった?」

「何が?」

「分かってるでしょう」


 お姉様が少し考えるような顔をする。


「そうね。以前よりずっとよかったわ」

「本当?」

「ええ。ちゃんとお話を聞いていたし、自分から話題も出せていたでしょう?」


 思わず口元が緩んだ。


「それに、誰かさんみたいに『そうですね』で会話を終わらせなかったもの」

「それはもう忘れて!」


 お母様が向かいでくすくす笑った。

 恥ずかしくなって窓の外へ顔を向ける。

 けれど、口元が緩むのは止められなかった。


 できなかったことが、できるようになった。

 それを誰かに認めてもらえる。

 こんなに嬉しいものだとは、知らなかった。



 屋敷へ戻ってしばらくすると、アルフが訪ねてきた。

 お姉様と一緒に居間へ向かう。

 アルフはすでに長椅子へ腰掛けていて、私たちに気づくと顔を上げた。


「おかえり」

「ただいま、アルフ」

「お茶会だったんだって?」

「ええ」


 以前なら、そのままアルフの向かいへ勢いよく座っていた。

 今日はドレスの裾を整えてから、お姉様の隣へ腰を下ろす。

 最近、ようやく意識しなくても綺麗に座れるようになってきた。


 ふと顔を上げると、アルフと目が合った。


「何?」

「いや」

「何よ」

「座り方が綺麗になったなと思って」


 そんなところまで気づいてもらえたことが、少しくすぐったい。


「でしょう?」

「自分で言うんだ」

「だって練習したもの」

「最近、本当に頑張ってるんだね」

「ええ」


 胸を張りかけて、途中でやめた。

 姿勢を正したまま笑う。


「今日のお茶会も上手にできたのよ」

「上手にって?」

「ちゃんと会話を続けられたの。お姉様にも褒めてもらったわ」

「それはすごい」

「前はひどかったものね」


 隣を見ると、お姉様は涼しい顔をしている。


「お姉様」

「本当でしょう?」


 少し前なら、ここから前回のお茶会でどれだけ困ったか、全部話していただろう。

 何を聞かれても「そうですね」としか答えられなかったこと。

 途中で帰りたくなったこと。帰宅してから、お姉様に相談しに行ったこと。


 でも、それでは、せっかく少し淑女らしくなったのに台無しな気がした。


「まあ、前よりは少し慣れたというだけよ」


 そう言って、出された紅茶へ手を伸ばす。

 アルフがこちらを見ていた。


「何?」

「……いや」


 まただ。


「さっきから何なの?」

「何でもないよ」


 アルフも紅茶を飲む。

 お姉様が私たちを交互に見たけれど、何も言わなかった。


「そういえば、クラリッサ」

「何?」

「今日は刺繍は?」

「午前中に終わったわ」


 アルフは手にしていたカップを受け皿へ戻した。


「どうだった?」

「順調よ」


 それで話を終えたつもりだったのに、アルフは何も言わない。


「何?」

「それだけ?」

「それだけって?」

「いや……」


 アルフが少し首を傾げる。


「前なら、指を刺したとか、糸が絡まったとか、先生に何回直されたとか、全部教えてくれたから」


 ぎくりとした。

 今日だって、一度糸を絡ませた。昨日は指も刺した。

 でも、そんなことまで話す必要はない。


「もう、前とは違うもの」


 アルフの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……違う?」

「私、立派な淑女になることにしたの」


 そう告げると、アルフが目を瞬いた。


「クラリッサが?」

「何よ、その反応」

「いや。ごめん」

「本気なのよ」

「分かってるよ。最近の君を見てれば」


 アルフの表情が柔らかくなる。


「すごいと思う」


 その言葉に、胸が弾んだ。


「本当?」

「うん」

「だったら、もっと褒めてもいいのよ」

「そういうところは変わらないね」

「何よ」


 思わず頬を膨らませる。

 アルフの顔が、ふっと楽しそうにほころんだ。

 それを見て、しまったと思う。


 今のは淑女らしくなかったかもしれない。

 私は慌てて表情を戻した。


 アルフの笑みが、ほんの少しだけ薄れた。


「……クラリッサ」

「何?」

「最近、庭に来ないね」

「え?」

「楡の木のところ」


 言われてみれば、確かに行っていない。

 以前は淑女教育から逃げるたびに向かっていた場所だ。


「だって、逃げなくなったもの」

「授業が終わってからは?」

「ダンスの練習があるし、刺繍もピアノもあるわ」

「毎日?」

「だいたいは」

「そっか」


 アルフが紅茶へ視線を落とした。

 それだけだった。


 けれど、少し残念そうに見える。


「庭に行きたいの?」


 尋ねると、アルフは顔を上げた。


「久しぶりにどうかなと思って」


 以前なら、迷わず立ち上がっていた。

 けれど今日は、まだピアノの自主練習が残っている。


「ごめんなさい。今日はやめておくわ」

「練習?」

「ええ」

「たまには、少しくらい休んでもいいんじゃない?」


 その言葉に心が揺れた。

 庭へ行きたい。アルフと楡の木の下で話すのは好きだ。


 少しくらいなら。

 そう思ったけれど、首を横に振った。


「駄目よ」

「どうして?」

「今まで、その『少しくらい』でずっと逃げてきたんだもの」


 アルフは何か言いかけたようだったけれど、結局そのまま口を閉じた。


「今日はちゃんと練習するって決めたの」

「……そっか」

「また今度ね」

「うん」


 アルフの口元には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいた。

 それなのに、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。


 気のせいだろうか。



 それから数日後、夕食を終えたところで、お母様から一通の封書を渡された。


「シャーロット、クラリッサ。来月の舞踏会の招待状よ」


 私は思わず顔を上げた。


「舞踏会?」

「ええ」


 封書を受け取る。

 以前なら、真っ先に面倒だと思ったはずだ。


 また支度に時間がかかる。挨拶をして回らなければならない。

 踊りに誘われれば、断る理由を考えなくてはならない。


 けれど今回は、違った。


「出たい」


 自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。

 お母様が目を瞬く。


「まあ」

「何?」

「あなたから舞踏会へ出たいと言うなんて」

「私だって舞踏会くらい行くわよ」

「前回は馬車の中でも帰りたいと言っていたでしょう?」

「昔の話よ」

「ひと月も経っていないわ」


 どこかで聞いたようなことを言われた。

 隣から、お姉様の小さな笑い声が聞こえた。


「今度は踊るの?」

「もちろん」


 今度は、断る理由などなかった。

 ずっと練習してきた。まだお姉様ほど上手ではない。

 それでも、もう誰かの足を踏むことばかり気にして、差し出された手から逃げる必要はない。


 何より、今度アルフが手を差し出してくれたら、今度こそその手を取りたい。


 私は手元の招待状を見つめた。


 最初は、ただアルフと踊りたかった。

 そのために始めたことだった。


 けれど今は、それだけではない。

 誰かと話すことも、綺麗に歩くことも、ずっと嫌いだった刺繍さえ、前ほど嫌ではなくなった。


 頑張った分だけ、できることが増えていく。

 それが、思っていたよりずっと嬉しい。


 それでも、一番楽しみなのは変わらなかった。


 次の舞踏会では、アルフの隣に今の私で立ってみたい。


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