中編
正午。病室には、昼の喧騒と弛緩した空気が満ちていた。
差し込む陽光の中で微かな埃の粒子が光り、壁の掛け時計がチクタクと規則的な刻みを残している。志乃はベッドの上に少しだけ上体を起こし、背中に当てた枕に身を預けながら、浅いまどろみの中にいた。
その静寂を切り裂くように、不意に軽快な電子音が跳ねた。
♪ピリリリ、ピリリリ……
電子音の合間に、ジジッと机の木目を震わせる振動音が混ざる。
志乃はまぶたを開け、丸くした目を枕元に向けた。塗装の剥げた黒いガラケーが、確かに液晶画面を仄明るく明滅させている。
「あら……」
かすれた声をもらしながら、志乃はしわの寄った手で急いで端末を拾い上げた。慌てるあまり指先が少し泳いだが、馴染んだ感触の「通話」ボタンをしっかりと押し込む。
「はい、もしもし。小山でございます……どなたかしら?」
受話器のスピーカーを耳に当てると、微かなノイズの向こうから、どこか冷たく幼い少女の声がひそやかに響いた。
『……私、メリーさん。今、駅にいるの……』
その声を聞いた瞬間、志乃のシワの刻まれた表情が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
駅。この病院から歩いて十五分ほどの場所にある、小さなローカル線の駅だ。志乃の頭の中で、点が線へと結びついていく。
(まあ……わざわざお見舞いに来てくれたのね)
志乃は受話器を握り直し、弾んだ声で呼びかけた。
「芳子かい? 芳子なのねぇ。……敏行は? パパも一緒に来てくれたのかい?」
しかし、返事は来なかった。
ただ、冷ややかなノイズが切れ、ツッ、ツッ、ツッ……と無機質な切断音が耳元で虚しく響くだけだった。
「あら……切れちゃった」
志乃は少し首をかしげ、不思議そうに画面を見つめたが、すぐに目元を緩めて優しく微笑んだ。
「ふふ、ボタンの押し間違いでもしたのかしら。相変わらずおっちょこちょいなんだから……急いで来てくれているのね」
志乃は胸の前で大切そうにガラケーを抱きしめると、ゆっくりと足を下ろし、ベッドの縁へと腰掛けた。
ナースシューズの音が遠くで響く廊下をよそに、志乃は窓の外へと視線を向ける。ここからは駅の方角は見えない。けれど、あの小さな足で、真っ赤なランドセルを揺らしながらこちらへ向かって歩いている姿が、はっきりと目に浮かぶようだった。
「楽しみだねぇ……」
愛おしさを噛み締めるように呟いた途端、胸の奥が引き攣り、志乃は小さくコンコンと咳き込んだ。
「けほっ、……ゴホッ」
痩せた胸を手で押さえながらも、その顔から笑みが消えることはなかった。
ガチャリとドアが開き、昼食のトレーを乗せたワゴンを押して、若い看護師が入ってきた。
「失礼します、小山さん。お昼ご飯を持ってきましたよ」
志乃は、まるで待ちかねていた宝物を自慢する子供のように、勢いよく顔を上げた。
「ねえ、看護師さん、聞いてちょうだい!」
「え?」
「さっきね、孫の芳子から電話があったのよ。今、駅に着いたんですって!」
志乃の瞳は生き生きと輝き、頬にはうっすらと朱が差していた。
「もうすぐここへ着くわ。午後には顔を見せてくれるかしらねぇ」
看護師は一瞬、手に持った配膳トレーを浮かせたまま、息を呑んで固まった。
志乃の視線の先、布団の上に置かれた古いガラケーに目が留まる。
何年も前に契約が切れ、アンテナのピクト表示すら消え去っている、決して鳴るはずのない機械。
(さっきの電話……?)
看護師の脳裏に一瞬の動揺が走る。だが次の瞬間、今朝ナースステーションでベテランの芝田から掛けられた言葉が、胸の中に静かに蘇った。
――今の小山さんにとっては、それが穏やかで幸せな『真実』なの。
看護師は深呼吸をし、浮かび上がりそうになった疑問を優しく胸の奥へ押し戻すと、温かな笑みを顔に浮かべた。
「……楽しみですね、小山さん」
「ええ、ええ!」
「芳子さん、気をつけて来てくださるといいですね」
「そうでしょう? だから私、お行儀よく待っていなくちゃねぇ」
満足そうに頷く志乃の笑顔は、まるで春の光のように柔らかかった。看護師は静かにトレーをオーバーテーブルへ置きながら、この温かな幻が少しでも長く続けばいいと、心から願わずにはいられなかった。
味の薄い昼食を、志乃はひとつひとつ確かめるように、時間をかけて口へ運ぶ。
「病院のご飯は、どうしてこんなに味がしないのかしらねぇ。」
汁物の器を静かに置き、志乃は小さく細い溜め息を笑いに混ぜた。箸を揃えて置くと、吸い寄せられるように枕元のガラケーへ手を伸ばす。
カチリと軽い音を立てて二つ折りの端末を開くと、液晶のバックライトが志乃の目元を淡く照らした。
アルバムを開く。画面の中に、懐かしい家族の姿が浮かび上がる。
自宅の庭先、満開のつつじの前で撮った一枚。照れくさそうに明後日の方向を向く白髪交じりの夫と、その隣で少し誇らしげに微笑む自分。
「もう、この人ったら。写真くらいちゃんと前を向けばいいのに……照れ屋さんなんだから。」
くすりと笑い、指先でボタンを操作する。画面が切り替わる。
ぴしりと黒いスーツを着こなし、少し引き締まった顔立ちでカメラを見つめる男の姿。
「……あら。」
志乃は画面に顔を近づけ、不思議そうに眉を寄せた。
「敏行って、こんなに大きかったかしら……。いつの間にこんな大人びた服を着るようになったのかしらねぇ。」
首を傾げながら、またひとつボタンを押す。
今度は、見覚えのあるような、ないような若い女性が、柔らかい日差しの中で華やかに笑っていた。どこか懐かしい面影がある。
「姉さん……? いいえ、違うわね。」
よく似ているけれど、自分の知っている姉の青春時代とは少し違う。けれど、他人のようにも思えない。記憶の糸がからまり、志乃の頭の中に小さな霧が立ち込める。
「誰だったかしらねぇ……。器量の良い、綺麗なお嬢さんだけど。」
分からなくなった記憶を追うのを諦め、画面を閉じようとした、そのときだった。
♪ピリリリ、ピリリリ……
静寂を突いて、再び電子音が鳴り響く。
志乃の表情がぱっと輝いた。今度は迷うことなく、急いで通話ボタンを押し、受話器を耳に当てる。
「もしもし! 芳子かい?」
スピーカーの向こうから、先ほどよりも少しだけ近く、冷ややかな少女の声が鼓膜を揺らした。
『……私、メリーさん。今、病院の前にいるの。』
「まあ!」
志乃は嬉しさのあまり、弾むように身を起こした。
「本当に来てくれたのねぇ!」
勢いよく体を動かしたせいで、胸の奥から発作のような咳がこみ上げる。
「ゴホッ……ゴホ、ゴホッ……!」
痩せた胸を細い手で固く押さえ、肩を大きく上下させながらも、志乃の顔から笑顔は消えなかった。目元に浮かんだ涙を指先で拭い、受話器に向かって愛おしそうに語りかける。
「芳子かい……よかったぁ。ここはね、302号室だよ。」
息を整えながら、幼い孫に噛み砕いて教えるように優しく言葉を続けた。
「玄関を入ったらね、エレベーターがあるんだけど……ちょっと奥まった場所にあって、わかりにくいからね。転ばないように、迷わないようにいでおいで。」
返事はない。
ただ、受話器の向こうで一瞬、何かが息を呑むような微かな気配が漂い――
ツッ、ツッ、ツッ……
再び電話は切れた。
志乃は切れた画面を愛おしそうに見つめると、ガラケーを両手で包み込み、胸の真ん中でそっと抱きしめた。
視線は、まだ固く閉ざされた病室の引き戸へと向けられている。
「もうすぐ、ここへ来るんだねぇ……。」
廊下から聞こえる規則的な足音に耳をすませながら、志乃は愛する孫を迎えるための優しい笑顔を浮かべ、じっとその時を待っていた。




