前編
窓から差し込む午前の光が、レースのカーテンを緩やかに透かしていた。
四人部屋の隅にあるその病室は、消毒液の匂いに混じって、どこか陽だまりのような微かな温もりが滞留している。
「小山さん、お熱測りますね」
ドアを静かに開けて入ってきたのは、まだ若い担当看護師だった。ワゴンを押し、手慣れた動作で体温計を差し出す。
志乃は小さく「はいはい」と頷き、素直に脇へと挟んだ。薄くなったカーディガンの袖口から覗く手首は、驚くほど細い。彼女の視線は、ずっと窓の外の空を流れる雲に向けられていたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、看護師さん……私、いつ家に帰れるのかしら」
看護師の手がピタリと止まる。カルテの挟まれたファイルを持ち直し、目線を志乃と同じ高さまで下げて、柔らかく微笑んだ。
「もう少しですよ。今は少し、肺にお水が溜まっていますからね。それがすっきり良くなったら、おうちに帰れるかもしれません」
「そう……」
志乃は胸の奥の支えが取れたかのように、ほっと小さな息を吐いた。シワの刻まれた目元が和らぐ。
「早く帰らないと、あの人が心配だわ」
視線を再び膝の上に戻し、愛おしむように自分の指先を重ね合わせた。
「一人じゃ、卵だって上手に茹でられないんだから」
困った人よねぇ、と小さく肩をすぼめ、少女のように照れくさそうに笑う。その笑顔の奥には、何十年も連れ添った夫への、揺らぐことのない確信と愛着が満ちていた。
看護師はその微笑みを受け止めながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えつつも、優しく頷き返す。
「きっと、首を長くして待っていらっしゃいますよ」
ピピピ、と体温計が小さく電子音を鳴らした。看護師はそれを受け取り、表示を確認する。
「微熱ですね。何かあったら、ナースコールを押してくださいね。それじゃ、また後で伺いますね」
「ありがとうねえ」
足音とワゴンの車輪の音が遠ざかり、重い扉が静かに閉まった。
途端に、病室は密やかな静寂に包まれる。規則的な点滴の滴下音と、遠くの廊下を歩くナースシューズの擦れる音だけが、ここが病院であることを思い出させていた。
志乃はゆっくりと息を整えると、枕元の小さな引き出しに手を伸ばした。
取り出したのは、二つ折りの古いガラケーだった。
何年も前に夫と選んだ古い機種。角の塗料はすっかり剥げ落ち、黒いプラスチックの地肌が覗いている。ディスプレイを覆う保護フィルムには、細かな傷が無数に刻まれていた。
志乃はその冷たい角を、まるで温かな生き物を撫でるかのように、やさしく指先でなぞった。そして、愛おしそうに両手で包み込み、胸の真ん中へと引き寄せる。
「……今日も電話、来ないわねえ」
窓の外では、風に揺れた街路樹の葉が光を弾いていた。
返事のない機械を抱きしめたまま、志乃はゆっくりと瞼を閉じる。病室には、昼前の優しくもどこか切ない静けさだけが、ゆっくりと満ちていった。
ナースステーションの蛍光灯が、白く無機質な光をフロア全体に投げかけていた。時折響くナースコールの電子音と、カルテをめくる紙擦れの音が、忙しない午後の時間を刻んでいる。
「お疲れ様です、芝田さん」
ワゴンを押して戻ってきた若い看護師の畠中が、胸元からボールペンを抜きながら声をかけた。
ベテラン看護師の芝田は、カウンター越しに目をやり、走らせていたペンの手を一旦止めて引き継ぎのノートを開く。
「お疲れ様。……302号室の小山志乃さん、体温37.4度、血圧96の64ね。ここ数日、午後に少し微熱が上振れする傾向があるから、今日も注視しておいて」
「わかりました」
畠中は頷き、カルテを受け取って記録をバインダーに挟み込む。そのまま立ち去ろうとしたが、ふと足を止め、何かを躊躇するように芝田の横顔を見つめた。
「あの……芝田さん。302号のおばあちゃん……小山さんのことですけど」
「ん? なに?」
「いつも、古いガラケーを抱えてらっしゃいますよね」
芝田は眼鏡のふちを指で押し上げ、ふっと口元に苦笑を浮かべた。
「ああ、あれね。大丈夫よ、医療機器への影響なんて何もないから。あれ、もう何年も前に契約が切れてるの」
「えっ……そうなんですか?」
「ええ。電波も飛んでないわ。今はただの腕時計か、昔の写真を見るアルバム代わりね」
畠中は手元のカルテに視線を落とし、少しの間、言葉を詰まらせた。
「でも……さっき伺ったときも、すごく愛おしそうに抱えてらして。旦那さんとか、ご家族から電話が来るのを、ずっと待ってらっしゃるみたいでした」
畠中の言葉に、芝田の表情からふっと柔らかさが消え、静かな影が落ちる。芝田は持っていたペンをデスクの上にそっと置いた。
「……旦那さんは、もう七年も前に亡くなっているのよ」
「……え」
「息子さんは海外勤務。半年に一度くらい病院に連絡はあるけれど、仕事でどうしても手が離せなくて、滅多に来られないの」
畠中は何かを探るように視線を泳がせ、思い出したように言った。
「じゃあ……小山さんがよく楽しそうにお話しされている、小さなお孫さんは……?」
「芳子さん?」
芝田は静かに頷く。
「もう立派な大人よ。数年前に結婚されて、今は隣県でご家族と暮らしてるわ。半月前にも面会に来てくださったばかり」
「……」
「でもね、小山さんの中では、芳子さんはまだ、真っ赤なランドセルを背負った八歳のままなの」
ナースステーションの喧騒の中で、そこだけぽっかりと穴が開いたような沈黙が降りた。畠中は言葉を失い、ぎゅっとカルテのバインダーを握りしめる。
やがて、耐えかねたように畠中がおずおずと口を開いた。
「……本当のこと、教えてあげなくていいんですか。『もうみんな大きくなって、旦那さんもいないんだ』って……このまま嘘をつき続けるみたいで……」
芝田は静かに深呼吸をし、閉じたカルテの上に両手を重ねた。その眼差しは厳しくもあり、どこまでも慈愛に満ちていた。
「教えて、どうするの?」
「……え」
「『ご旦那さんはもう亡くなっていますよ』『息子さんは今日も来ません』『お孫さんはもう大人で、ここにはいません』……そうやって現実を突きつけて、何になるの?」
畠中は返す言葉を見つけられず、俯くことしかできない。
「小山さんはね、現実を突きつけられるたびに、旦那さんを亡くしたばかりの絶望を、何度も何度も新しく味わうことになるのよ。……そして、明日になればまたそれを忘れて、同じ傷を負うの」
芝田の声は穏やかだったが、看護師として幾度も悲劇を見届けてきた重みがあった。
「教えてあげることだけが、誠実さじゃないわ。今の小山さんにとっては、息子さんや小さなお孫さんを待っている時間が、穏やかで幸せな『真実』なの。それを奪う権利は、誰にもないのよ」
芝田は畠中の肩にそっと手を置き、優しく微笑みかけた。
「小山さんが安心して、温かい気持ちで今日という日を過ごせるように守ってあげること。それが、今の私たちの仕事よ」
畠中はゆっくりと顔を上げ、胸の奥につかえていたものが少しだけ温かく溶けていくのを感じながら、深く頷いた。
「……はい。分かりました」
「よし。じゃあ、残りの巡回お願いね」
「行ってきます!」
元気を取り戻した畠中の背中を見送りながら、芝田は再びペンを取り、静かな呼吸を一つ吐いた。窓の外では、外の柔らかな光が病院の白い廊下を静かに照らしていた。




