後編
レースカーテンの隙間から差し込む柔らかな光の中で、志乃は手に馴染んだ古いガラケーをゆっくりと開いた。
ディスプレイの暗がりを拭うように指を滑らせ、送受信の履歴を辿っていく。
そこには、何年も更新されていない文字の列。新しい着信も、いつか届くはずのメールも、そこにはない。それでも彼女の指先は、まるで古い愛読書をめくるかのように、何度も同じ画面を往復していた。
『今日は帰りが遅くなる。夕飯はいらないよ。』
『牛乳と卵お願い。』
『了解。気をつけて帰ってきてね。』
「あの人ったら……」
志乃は可笑しそうに目を細め、小さく苦笑した。
「ろくに連絡も寄越さないで。今頃ちゃんと、ご飯を食べているのかしらねぇ」
愛おしそうに画面を見つめたまま、親指がさらにゆっくりと過去の履歴へと遡る。
『明日から一週間、海外出張です。』
息子、敏行のそっけない会話が表示されたメール。
「海外……」
志乃は深く頷き、画面の中の文字に話しかけるように呟いた。
「生水なんて飲んじゃ駄目よ。あの子ったら昔から、すぐにお腹を壊すんだから……」
ふっと息子によく似た夫の困り果てたような顔が脳裏に浮かび、志乃はくすりと胸を揺らした。
「まったく、誰に似たのかしらねぇ」
笑った拍子に胸の奥が冷たく引き攣り、小さく咳が漏れる。
「ゴホッ……ゴホッ……」
喉を押さえ、整わない息を吐き出した、その時だった。
♪ピリリリ、ピリリリ……
電子音が、静まり返った部屋の中に鮮やかに弾けた。
志乃の顔が一瞬で輝く。細い指先で迷わずボタンを押し込み、端末を耳元へと寄せた。
「はい、もしもし!」
『……私、メリーさん。今、三階にいるの……』
ひんやりとしたノイズを纏った声が、耳奥を掠める。
「まあ、もう着いたの!」
志乃は心底嬉しそうに目元を緩め、声の弾むままに言葉を繋いだ。
「ちゃんとナースステーションで受付をするのよ? それからね、入り口側のお部屋の園田さんはちょうどお昼寝の時間だから……静かに通り過ぎるんだよ」
返事は帰ってこない。
ただ、どこか戸惑うような沈黙の後、ツッ、ツッ、ツッ……と無機質な切断音が響いた。
「あらあら、やっぱり気が急いているのねぇ」
志乃は受話器をそっと閉じると、ゆっくりと体を起こし、ベッドの縁へと両足を下ろした。
窓の外では、夏の日差しが街並みを白く眩しく揺らしている。
「もうすぐねぇ……」
愛しい足音が近づいてくる気配を噛み締めるように呟き、志乃は静かに病室の扉を見つめ続けた。
♪ピリリリ、ピリリリ……
静まり返った病室に、またしても古いガラケーが甲高い電子音を響かせる。
志乃は愛おしそうに端末を拾い上げ、ゆっくりと受話器を耳へ当てた。
「はい、もしもし……」
ノイズの向こうから、今度は耳元に直接吹きかけられるような、ひんやりとした少女の声が囁いた。
『……私、メリーさん。今、あなたのうしろにいるの。』
ツッ、ツッ、ツッ……
電話が切れる。
病室を、重苦しいほどの静寂が支配する。いつもなら怪異が人に恐怖を与える、最後の瞬間だった。
志乃はゆっくりと首を巡らせ、後ろを振り返る。
午後の強い日差しが、カーテンの隙間から白く真っ直ぐに差し込んでいた。
その眩しい逆光の中。
ベッドの端に、いつの間にか小さなセルロイドの西洋人形がぽつんと立っていた。擦り切れたレースのドレスを纏い、全ての感情を削ぎ落したような無機質な目。
しかし、志乃はその瞳をじっと見つめ、目元を優しく細めた。
「あら……」
震える細い手を、静かに伸ばす。
しわの刻まれた温かな指先が、人形のひんやりとした冷たい頬へ、そっと触れた。
「あなた……」
その皮膚のぬくもりが伝わった瞬間。
志乃の頭の中で、霧のようにもやついていた何十年もの途切れ途切れの記憶が、一筋の強い光の糸となってつながっていく。
――空襲で焦げた街の匂い。
黒煙と絶望の泣き声。
満員の列車の激しい揺れ。
握りしめていたはずの、小さな手触り。
「……ああ。」
志乃の目から、ぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちる。
「ああ……なんで忘れていたのかしら。」
枯れた声が、途切れ途切れに濡れて震える。
「東京から、盛岡へ逃げる途中……」
「手から離れて、いなくなってしまったのね……」
「私の……一番のお友達。」
志乃は人形をそっと持ち上げ、まるで壊れものを扱うように、大事に抱き上げた。
幼い子供を慈しむように、優しく背中をさする。
「ずっと……ずっと探してたんだよ。」
「ごめんなさい……ごめんなさいね。」
「こんなに大事だったのに……」
「お名前まで……忘れちゃってて……」
小さなセルロイドの体を、痩せた胸の真ん中へぎゅっと抱き寄せる。
志乃の抱擁と、溢れ出す涙の温もりに包まれたとき、人形の体からはもう、刺すような冷たさは消え去っていた。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
志乃は激しく胸を揺らして咳き込んだ。それでも、胸の中の人形だけは決して離さず、強く、強く抱きしめ続けた。
しばらくして、午後の回診の時間が訪れる。
「小山さん、失礼しますね。体調はいかがですか?」
ドアを開けて入ってきた看護師が、ふとベッド脇のパイプ椅子へ目を止めた。
そこには、古びたセルロイドの西洋人形が、ちょこんとお行儀よく座っている。お昼までそこには何もなかったはずだった。
「……あら。」
看護師は不思議そうに目を丸くする。
「お見舞いの方が、置いていかれたのかしら?」
志乃は涙の痕が残る顔に、この上なく誇らしげで、温かな笑顔を浮かべて人形を見つめた。
「この子ね……」
「ずっと遠いところから、私に会いに来てくれたの。」
看護師が一瞬だけその人形を、そして志乃の満たされたような表情を見つめ、全てを察したように柔らかく微笑んだ。
「そうでしたか……」
「それは、本当に良かったですね。」
看護師は静かに歩み寄ると、志乃の掛け布団を優しく掛け直した。
「面会時間は気にしなくて大丈夫ですからね。ゆっくりお話ししてください。」
「ありがとうねぇ……。」
志乃は嬉しそうに何度も頷く。
小さなセルロイドの人形は、ただ静かに、自分を思い出の中で待ち続けてくれた人の傍らで、温かな日差しを浴びながら座り続けていた。
数週間後、スマートフォンを耳から離し、芳子は静かに小さく息を吐いた。
電話の向こうの葬儀社との打ち合わせを終え、病院特有の淡い消毒液の匂いが漂う廊下を歩く。小さめの段ボール箱を両手に抱え、静かに扉を開けて病室へ入った。
主を失った病室は、しんと静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込む午後の光だけが、シワひとつなく整えられた白いベッドをぽつんと照らしている。
芳子はパタパタと音を立てないよう気をつかいながら、壁際のロッカーを開けた。
ほのかに漂う防虫剤と線香の香り。使い慣れたカーディガンや、几帳面に畳まれた着替え。もう二度と履かれることのない、柔らかい布製のシューズ。
「おばあちゃん……」
一つひとつの品を手にとり、畳み直しては段ボールへと静かに収めていく。
空になったベッドの頭元には、まだ「小山 志乃」と書かれたネームプレートだけが残されていた。
芳子は手を止め、少しだけ目を伏せる。
もう、帰る家はない。祖父が逝き、祖母も旅立った今、あの小さかった実家も処分が決まっている。思い出の詰まった場所は、ひとつずつ形を失っていくのだという寂しさが、胸をじわじわと締め付けた。
そのときだった。
ベッドの傍らに置かれたパイプ椅子の上へ、ふと視線が留まる。
「あら……」
そこに、小さなセルロイドの人形がちょこんとお行儀よく座っていた。
芳子は段ボールを置き、吸い寄せられるようにその人形へ手を伸ばした。
手触りは軽く、どこか冷たい。擦り切れた小さなドレスを纏ったその人形は、ずいぶん古いもののようだった。何十年もどこかに置き去りにされていたかのような細かな傷があるというのに、不思議と、その表情は陽だまりの中にいるように穏やかだった。
くるり、と人形を裏返してみる。
足の裏――踵の片方に、黒いインクでかすれた小さな文字が残されていた。
『吉崎 志乃』
「吉崎……」
芳子は言葉を噛み締めるように、小さくつぶやいた。
そういえば、幼い頃に一度だけ聞いたことがあった。祖母が嫁いで「小山」になる前の、昔の苗字だ。
何気なく、もう片方の踵を見る。そこにも、つたない手つきで書かれた小さな文字が残っていた。
『メリー』
「……お人形の名前かな。」
祖母が子供の頃、戦時中の混乱の中で失くしてしまったのだと話していた、大好きだったお人形。きっと事情を知る親戚の誰かが、最期に形見として届けてくれたのかもしれない。芳子はそう解釈することにした。
芳子は人形を愛おしそうに両手で包み込むと、段ボールの一番上、整えられた衣類の上にそっと優しく寝かせた。
「おばあちゃんの大切なものなら……一緒に連れて行ってあげようね。」
蓋を閉じ、しっかりと抱え直す。
振り返ると、誰もいない病室に午後の柔らかな光が満ちていた。
祖母のずっと抱いていた想いを、一つも残さず棺に入れて送ってあげられるように。芳子は穏やかな気持ちで、静かに病室をあとにした。




