最終話
「どこかの芸人が言ってたわ。生きてるだけで丸儲けやって」
「十中八九、大阪の芸人や」
富岳との芝居のような日々は、その後、俺の住む街から遠く離れた、東北の山奥であっけなく幕を閉じた。
4月中旬の山々には、まだ斑に雪が残り、いくらか顔を覗かせた地面はぎっしりと落ち葉に覆われ、赤や黄色といった秋の紅葉の名残を、誰にも見つけることの出来ない宝物のように光らせている。
もとより彼女は俺にとって、知り合いでも他人でもない。あの豪雨の夜からたった1、2週間の間に、二人の関係に劇的な変化が望めるはずはなく、煩わしい不安感を視界の外に追い出して、ただ彼女の大きな瞳や唇に集中した最後の日々も、結局は、この関係が何の意味も持たないこと、あるいは意味を持った瞬間に富岳が消えるということを、再確認させるに過ぎなかった。
富岳が言った言葉がある。
「海賊王に私はなる」
俺が「どんだけ頑張ってもお前は海賊女王にしかなられへんねん」と返すと、その翌朝には、彼女は黒髪と、乳と尻の手触りだけを俺の手に残し、あとは昨晩一緒に食べた鍋がその匂いを居間まで慇懃に運んでくるのみで、彼女はいつのまにか、どこかの勝手な猫のように俺の前を去っていた。もう戻ってはこなかった。
実は、娘を流産させたあの夫婦の妄想が、現実だったのだ、初めから富岳などいなかったのだと、酒に頼って思い込んだ夜も幾度かある。ただ、筍とりに山に入ったある東北の、限界集落の老母が、損傷のない、死因不明の女性の遺体を見つけたというニュースが全国に流れると、富岳が死んだのではないかと思い込むのにそう時間はかからず、俺は飛行機とレンタカーで、その田舎町へと急ぎ足を踏み入れていたのだった。
「人間50を過ぎれば、愚者か賢者のどちらかよ」
「そんで、80を過ぎると、死者になる」
そして東北の自治体による火葬の手続きに割り込んだ俺は、普段、俺の部屋の薄っぺらな布団から出てくることのない、大阪生まれの図々しさを叩き起こして職員たちに食ってかかり、その挙句に棺桶の中の、富岳の顔を拝み得た。しかしながら、
「なんや、彼女、富岳とちゃうやんか。すんません、この人誰ですか? 名前も分からへんのですか?」
「沖ノ鳥子さんという人ですけど。ニュース見ませんでした?」
「沖ノ鳥子? なんやその最南端みたいな名前。沖ノ鳥島やないかい。鳥か島かはっきりせえ」
火葬場の自動ドアが開き、小柄で皺だらけの、その昔は女でしたというような老母が突然現れ、つかつかと俺の前に歩みを進める。彼女は竹製の大きな籠を背負い、中に入った満杯の筍が落ちないようバランスよく歩いている。きっとこれまでの人生もバランスよく歩いてきたのだろうが。
「お前さん、今、富岳と言ったね」
「アンタ今入ってきたばっかやろ。なんで建物に入る前から聞こえとんねん」
「いいかい。よくお聞き。お前さんがこの3月に一緒に暮らしていた女の子は……大雨の夜に突然姿を消したり、素っ裸で玄関に立ってたりした女の子は、今から300年前の江戸時代に生まれたとされる、妖怪『春の前』だよ。その妖怪はもともと女郎だったんだけどね、年に一度、桜が咲く前のほんのひと月だけ、江戸に商売に来る男に惚れたんだ。上方、今で言う大阪から来ていたらしいんだけどね。ある年になって、その男が死んでしまったという知らせを聞かされた。女郎はいたく悲しんだけど、どうしても彼の死を信じきれず、ついには大阪まで、なけなしの銭をはたいて旅に出たそうな。後はお決まりのお話さ。道中で倒れた女郎は死後の魂の生き場を失い、妖怪となって、今なお大阪の街の中であの商人を探している。気をつけな。一度目をつけたら、その男が死ぬまで毎年3月に現れるって話だからね」




