第4話
「じゃあ、男でも女でもなかったら?」
「そのときは別の名前が必要かもな」
赤子が世を去って、泥水のような1年が流れ去った。命拾いした母親は医者の助けで体調を回復させたが、夢や希望が綺麗さっぱり拭い取られてしまった精神をいつまでも引きずり、あるときはそれを重たいバックパックの様に背負い、またあるときは、漂うヘリウム風船のように失わないよう抱き留めて、じっと時の経過に耳を傾けているのだった。
夫はそのことがあってからも、意地を張るように彼女を愛した。愛すること以外に船を漕ぎ続ける方法を見つけられず、また漕ぎ続けなければ、この船は確かに沈没するであろうことを、悟りたくもなかったのに悟っていた。しかしながら、その無様な意地の張り方が、かえって彼女を傷つけたのは言うまでもないことで、やがて夫婦関係に小さな限界を感じた彼女は、豪雨の夜に、世界の終わりか、あるいは自らの死を求めて外に飛び出した。身一つで雨に打たれて幾分か赤子殺しの罰を受けた気になった彼女は、その罰に心を励まされて、先へ先へと重たい脚を進めたのだった。まるで見知った道を通って見知らぬ街へ行こうとする、子供のようだった。
「世界の中心で、愛をさけびましょう」
「こっからだと遠いで。中心」
そういう悲劇の女が、あの化粧品店の前で精魂尽きて泣いているのだ、という妄想が下火になり、その妄想が仄かな余韻を残す頃になって、俺は駅に着いた。改札を出た辺りで富岳が待っていやしないかと、傘を持った手であちこち歩いて、彼女の姿を探した。待ち合い室に並んだベンチには、まだ何人かがひどく疲れた様子で座っている。一方で足早に歩く者たちは皆、チェス駒の様に自分の行き先だけを見つめ、そうでなければスマホで自分の行き先を探している。
俺は疲れて、待ち合い室の生きた死人たちに仲間入りした。
まったく、女もこれだけいるというのに、その中に富岳が1人もいないのはどういう訳だろう。2、3人出てきてもよさそうなものだ、と軽い冗談が湧いて出てきた。そして俺は突然、彼女がここにはいないことを悟った。
そうだ。彼女はもともと、冗談のような女だったではないか。冗談のような場所にいるに決まっているのだ。
「神は宣うた。光あれ、と」
「電気つけえや」
営業を終了した真っ暗なファミレスの中に居たのが、富岳であって欲しくはなかった、という、常識的な気持ちもある。しかし、彼女はいた。彼女は誰もいない夜の商業施設に横たわった背徳感と、明確な不法侵入の罪の意識と、窓ガラス越しに見られはしないかという緊張感をすべて混ぜ合わせて、真っ白い黒をパレットの上に作り、それで自由に絵を描いている。
「なんで帰ってこんかったん。もう夜中やで」
「まだ帰ってないよ」
「せやから迎えに来たんやろが」
「ちょっと遅いけど、ハンバーグ食べない?」
「ええかげんにせえ」
もともとどこまで続くか分からない小説ですし、ここで終わってもよさそうなんですが、もう少しだけ、よくわからない女を書いていたい気持ちもあります。




