心太、やっと契約する
しかしーーーーーーー。
婆ちゃんの変化は、あまりにもあっけなかった。
「ほら。早く決断をせんか。次はお前だろうに、心太」
「うん、まぁ……そうなんだろうけどさ……」
いや、分かっていた。分かってはいたが。
目の前で祖母がここまで“別物”に変わったのを見せられるとねぇ。
さっきまでの霊体が、肉体をもった艶な姿に変貌。
婆ちゃん――いや、もう婆ちゃんと呼んでいいのか分からない“それ”が、じっとこちらを見ていた。
昔と同じ目だ。
家で味噌汁を出してくれたときと、変わらない目。
そんな温かい空気を醸し出している。
……でも。温かかろうが、優しかろうが、話の中身は「さぁ、アンタもさっさと悪魔におなり」と、毒っぽい。
あれ?
さっき気づかなかったけど……婆ちゃんの頭の端っこにコブみたいなのがって……。
「角!? 婆ちゃん角が……めちゃくちゃ短いけど角が生えてるよ!?」
言うと。
「そりぁそうだろう。悪魔なんだから角だって生えるさ」
めっちゃあっけらかんと言う祖母。
これ、赤ずきんの話だったら、主役の赤ずきんは狼に魂売ってるのかな。
「心太」
静かな声だった。
「お前、まさか、ここで引くのかい?」
「……っ」
胸の奥が、妙にざわついた。
怖いのは、正直ある。
でも、それ以上に―――。
「色んな事を考えちゃうよ……。会社も辞めたら迷惑をかけるし、なんだかんだで今の生活も気にいってるし……」
俯いて俺が軽く拳を作る、と。
「なぁ……心太よ……」
冷静で優しい声で誰かが、俺を呼んだ。
顔を上げると声の主が目の前にいた。美麗な統治者ルシファーだ。
「誰だって初めてというのは怖い。それは分かる。だが考えてみよ……」
俺の隣に腰を下ろして、ルシファーが寄り添う。
なんていうか……流石は元天使。優しさに満ちて大いなる慈しみをもった表情だ。ちょっと気おされた俺は。
「は、はい……」
挙動不審となってしまい、目線をちゃんと合わせられない。
そんな俺に、ルシファーは。
「報告書に目を通したが、そもそもそなたは、今の生活に執着するほど、大した生活を送っておらぬだろう」
穏やかな口調でそれはそれはとても優しく囁く。
「え………」
「それに会社に迷惑をかけると言っておるが、そうでもないはずだ……。金融機関の仕事だったな。確か成績も並……いや、それ以下……。そなたの代わりなどいくらでもいる。だから心配するな大丈夫だ。そんな人間の事などは、時間が経てばすぐに忘れる。会社、組織はそなた一人いなくともどうにでもなる―――」
ヤサシイト、オモッタオレガ、バカデシタ……。
ひでぇ……なんて事言うんだこの人は……。
ネェダレカ、ヤサシクソット、ダキシメテ……。
急に涙が止まらなく……。
「そなた……なんだ、泣いておるのか?」
ルシファーが俺の顔を覗き込んで不思議そうな顔をする。
「な……泣くわい! アンタなんて事言うんだ!」
そんな俺とルシファーのやりとりを、婆ちゃんは嬉しそうに笑った。
「ちゃんと約束した通り見守ってくれてたんだねぇ。もうここまで来たんだ。心太、地獄だろうが煉獄だろうが、行ってやろうじゃないか。ん?」
「……上等だよ」
俺は顔を服の袖で拭い。
「あぁ! 行ってやるよ! それで俺とファウストが助かるんなら行ってやる!」
もはや自暴自棄。
でもそんな俺の返事にルシファーは、顔をパァッと明るくさせ。
「よーし! よくぞ言った! そなたには部下が行った借りもある。大盤振る舞いをしてやろう」
「……へぇ。で、代償は? 俺は何を対価にすれば良い?」
「フハハ! いらぬ! 今言ったであろう。借りがあると。ゆえにそなたから対価はとらぬ! 出よ、契約の証人よ!!」
そのときだった。
空気が、ひび割れるように歪んだ。
またしても音もなく、しかし確実な“何か”がそこに現れる。
黒でも白でもない、色の定義から外れたような影。
「―――契約を望む者よ」
ルシファーの声が、頭の内側から響いた。
膝が勝手に震える。
「人の身を捨てる覚悟はあるか?」
「……ちょっと質問いいか」
俺は声に出して訊く。
「許す」
「悪魔になってもちゃんと飯は食えるのか」
「は?」
ベルクが吹き出した。
ファウストが天を仰ぐ。
だが、ルシファーは一瞬だけ沈黙し―――。
「……当然だ。そいつらちゃんと食っていただろう」
「そっか、そうだな。安心した」
「……もういいか?」
「あ……!」
「なんだ……?」
「あと婆ちゃん見てて思ったけど、若返るのアリなんだな」
「それは……まぁ、条件次第だ」
「じゃあそれも込みで」
「……分かった。もういいか?」
「……ごめん。一個だけ、ちゃんと聞く」
心太は、ぐっと拳を握った。
「実際に俺は、何を失う?」
その問いに、ルシファーははっきりと答えた。
「“人としての終わり”だ。戻ることはない。寿命も、価値も、在り方も―――すべてが変質する……が」
「が……?」
「基本的なところは何も変わらん。そなたの祖母にしたように特約も付けてやる」
まるで保険の勧誘文句だな。
「……って、婆ちゃんにスキルを付けた?」
「左様」
「それってどんな?」
ちょっとワクワクしながら訊いたら。
「それは楽しみにとっておけ」
ニヤッと笑うルシファー。
なんだかちょっと悪そうな笑顔だ……。
そんなルシファーにファウストとベルクが。
「……スキルとは……なんかずいぶんと気前がよいな?」
「えぇ……。大盤振る舞いですね。何かあったのでしょうか?」
「……お前たち、聞こえているぞ。この青年には魔界として借りがある。それを考慮したまでのことだ。部下の失態を帳消しにしたくてなぁ?」
ファウストをギロッと睨むルシファー。
「……も、うしわけあり、ません」
そんなルシファーにファウストが平謝りする。
「じゃあ……お願いします」
俺が頼むと、ほんの一瞬だけ、ルシファーの気配が変わった。
「……契約成立だ。握手といこうじゃないか?」
差し出されたその手を俺は取った。
触れた瞬間―――。
ずっと控えていた契約の証人が、俺を包み込む。
これは……。
熱とも冷たさとも違う“何か”が、全身を駆け巡る。
骨が軋み、血がざわめき、意識がひっくり返る。
「――っ、ぐ、あ……!」
視界が、黒に染まる。
だが、体のその奥で。
確かに“何か”が目を開いた。
「ようこそ、同胞よ」
声が響く。
自分に今起きているこの感覚で、ようやく理解した。
俺は、もう、引き返せない。
頭蓋骨の左右が軋む音を立てる。
頭の内側から何かを押し出す感覚だった。
あ、これ、角が生えてるな……。
痛み? 苦しみ? 違う。
それ以外の何か。
そうか。
これが、変体ってやつか……。
失いそうになる意識の中で、そんな事を思った。
そして。
その時間が終わりを告げた時。
俺は明らかに人間じゃないモノに変わっていた。
自身の姿をベッドの脇にある全身鏡を見て。
「……悪く、ねぇな」
そう俺は笑った。




