第九十一話 闇刃
22層です!
21層で6日間、木に遮られていた風が戻ってきます。
その代わりに、今度は上から来ます。
ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。
崖の中の階段は崖の外より冷えていて、岩を削った段に沿って壁に手を付けると指先が湿った。
20層までのどの階段より長く、前で揺れるミアの灯りを見ながら段を数えていたが、途中で数えるのをやめて足の裏だけで下りた。
降りきった所でミアが灯りを下ろすと、空が広かった。
木が1本も無い平らな岩の台地が星の下に続いていて、遠くでその縁が黒く切れ、切れた先は見えない。6日間ずっと枝の隙間から見上げていた星が、ここでは端から端まで見えた。
「……風が、遠くまで届くわ」
ミアが風を読んで長く息を吐いた。
「森と全然違う。向こうの縁まで風が1本で通ってるし、谷の方へ吸われてるのも分かる。台地の向こうが谷になってて、下り口はそっちね」
「谷までは、どのくらいだ」
「日が暮れる前に着くわ。何も出なければ、だけど」
ミアは懐の写しを出して22層の所を指でなぞり、ハーピー、上、声を聞くな、バジリスク、目を見るな、と小さく読み上げてから畳んだ。
「この層の事を書いた組は3つ。3つともハーピーかバジリスクのどっちかには会ってるわ。両方に会ったのは1組だけで、その組は生きて戻ってる」
戻っていない組の事は2人とも口にしないまま、台地を歩き始めた。
岩は平らで歩きやすく、足音が思ったより遠くまで響いて、隠れる物がどこにも無い。こちらから遠くが見えるという事は向こうからも見えるという事で、それはミアの方が先に口にした。
「風が遠くまで読める分、私の矢も遠くまで届くわ。でも相手が上にいる間は矢が届かないし、降りてくる時は速いから、番える前に来られる」
「上の方は、風で読めないのか」
「風は横に読む物よ。上は来てみないと分からない」
1日目は何も来ないまま、台地の縁から少し離れた所を歩き、昼が暮れて夜になってミアが結び目を1つ作った。21層で作った24個の隣に、この層の1つ目。25個目だ。
木が無いので火は背負ってきた炭と、21層で拾っておいた乾いた苔で小さく焚き、鍋で豆を温めて干し肉を齧った。森の中より星が近くて、火が要らないほど明るい夜だった。
ミアが荷の中から古い布を出して、短剣で細く裂き始めた。
「何を作ってる」
「耳に詰める物よ。帳面にハーピーの声を聞くなって書いてあったでしょ。聞かないで済むなら聞かない方がいいもの」
「それで聞こえなくなるのか」
「分からないわ。やらないよりはましでしょ」
裂いた布を丸めて2組作り、1組を俺に投げてよこしたので耳に詰めてみると、火の爆ぜる音が遠くなってミアの声が遠くから来るようになった。矢の音が聞こえなくなるのは困るとミアが言うので、俺は布を外して胸当ての内側に入れた。
2日目の昼、台地の縁の向こうの空に黒い点が幾つか浮いているのが見えた。
俺にはまだ点にしか見えないが、ミアの目にはもう形が見えているらしかった。
「翼のあるのが7つ。谷の上を回ってるわ」
鑑定を向けると、窓は開いた。
ハーピー Lv44
HP:1,600/1,600
スキル:飛翔 Lv3/歌声 Lv3/爪 Lv2
「Lv44でトロルと同じ数字だが、HPは1,600でトロルより薄い」
「薄くても、上にいる間は斬れないわ。……歌声、って出てる?」
「出てる。帳面の、声を聞くな、はこの声の事だろうな」
点は谷の上を回っているだけでこちらへは来ず、来ない間に縁から離れた所を歩いた。台地の真ん中に窪みが1つあって底に水が溜まっていたが、星が映るだけで動く物はおらず、水袋を満たしてそこを離れた。
2日目の夜、火を挟んでミアが矢を数え終わった所で、俺は刀を抜いた。
「ミア、試す。手記の2つ目、刃先が伸びる方だ。使う時は言ってから、と言われたから言ってる」
「……今、ここで?」
ミアは矢筒を膝に置いたまま、俺の刀と火の向こうの俺の顔を順に見た。
「髪は切らないでよ」
「岩にやる。こっちには向けない」
火から少し離れた所に腰の高さの岩があったので、その前に立って刀を構え、刃先と岩の間に3センチほどの隙間を空けた。
刃先はもっと先まである、と決めて振ったが、刃は岩に届かずに空を切り、手応えは何も無かった。
もう一度、今度は3センチだけ先にあると決めた。欲しい分だけで、それ以上は要らない。
そう決めて振ると、岩に線が付いた。
刃先は岩の手前で止まっているのに、岩の表面に細い筋が1本、火の明かりで光っている。
「……今の、何」
ミアが立ち上がって、矢筒を置いたまま岩の線を指でなぞった。
「刃は岩に当たってないわよね」
「当たってない。刃先が3センチだけ先にある、と決めて振った」
「じゃあ、もっと離してみて」
隙間を10センチに広げて、10センチ先までと決めて振ると、また線が付いた。少し横にずらして同じに振ると、もう1本付いた。
50センチ空けて、50センチ先までと決めて振ると、空を切って線は付かず、もう一度やっても同じだった。10センチまでは付いて50センチは付かず、その間のどこかに境があるらしいが、探している間に火が小さくなってきた。
「欲張ると出ない、って手記に書いてあった」
「腕の長さは無理で、手の幅くらいまでなのね」
ミアは岩の線を3本、順に指で触ってから火の所へ戻った。
「手の幅だけ伸びて、何が変わるの」
「分からない。届かない物が届くかもしれない」
「かもしれない、で命を賭けないでよ」
「伸びるのを当てにして踏み込むのはやめる。伸びた時だけ、その分を使う」
刀を鞘に戻す前に刃を見ると鋼の色のままで、鍔の近くの薄い黒は変わらず、黒が増えた感じも無い。光を食わなくても使える物があるとあの男は書いていて、その通りらしかった。
ミアはそれ以上聞かずに矢を数え直してから、先に寝た。
3日目の昼前、空の点が近づいてきた。
「来るわ、7羽全部。……耳の布を」
胸当てから布を出して耳に詰めると、風の音が消えてミアの声だけが小さく残った。
点が形になっていく。灰色の羽の翼は広げれば人の背の倍ほどあり、細い胴は人の女の上半身に鳥の脚が付いていて、脚の先に爪が3本。顔は人に似ているが目が異様に大きく、口が耳まで裂けていた。
7羽が矢の届かない高さで台地の上を回り始め、声が来た。
布を通しても来る。歌というより高い音がどこまでも続いていて、それが耳に入ると体が重くなった。走ろうとしても水の中を走っているように1歩が半分しか出ない。
「ミア、足が出ない」
「私も! 布じゃ声を塞げてないわ!」
ミアがいつもより遅い手で矢を番えて放ったが、矢は上まで届かずに落ちた。
「あの高さじゃ矢が届かない! 降りてこないと射てないわ!」
降りてこない。声で俺たちを遅くして、遅くなった所へ来るつもりらしい。
1羽が翼を畳んで真上から落ちてきて、爪を開いたまま俺の頭を狙った。横へ出たつもりの足が半分しか出ず、爪が外套の肩を裂いて岩に火花を散らし、そのまま上がっていく。
上がりきる前に次の1羽が横から低く滑ってきたので刀を上げると、届く高さだった。翼の先を落とされたハーピーが岩に転がり、転がった所で首を払った。
【ハーピーを討伐しました】
【経験値 +500】
1羽減ったが、横から低く来た1羽が落ちたのを見た残りは横からは来なくなり、高い所から真っ直ぐ落ちてきてすぐ上がる形に変えた。
声だけが続いている。
「ミア、上のは射てるか」
「射てるわ、降りてきた時だけ!」
次の1羽が俺の背中を狙って落ちてきた。見えていたのに足が遅く、爪が外套の背を裂いて鱗を擦り、火花と一緒に上がっていく。その翼の付け根をミアの矢が通って、片翼で回りながら落ちてきたハーピーが岩に当たって砂になった。
残り5羽が、一斉に回る向きを変えた。
俺の上ではなく、ミアの上に集まっていく。
「ミア、上!」
ミアが矢を番えるが遅く、番え終わる前に2羽が落ちてきた。1羽は矢で落ちたが、もう1羽が低く滑ってミアの足元を掠め、爪が両方の靴ごと足首を掴んだ。
ミアの体が、岩から浮いた。
足から吊られて逆さになり、弓が手から落ち、矢筒の矢が岩に散っていく。ミアは短剣に手をやったが、逆さのまま自分の足首の上の爪まで腕が届かず、短剣が岩に落ちた。
半分しか出ない足で走った。
ハーピーはミアの重さで翼を打っても上がりきれず、爪は俺が手を伸ばせば届くかどうかの高さで、逆さのミアの頭が俺の胸の前で揺れている。岩を蹴って出せるだけ高く跳び、爪のすぐ上の鳥の脚の細い所へ刀を振った。
届かなかった。刃先と脚の細い所の間に、10センチほどの隙間が残った。
岩に降りて見上げると、ハーピーはまだ同じ高さで翼を打っていて、少しずつ縁の方へ流れていく。
10センチだ。跳ぶ前に、刃先は10センチ先まであると決めた。岩で線を付けた分だけで、それ以上は要らない。
そう決めて跳び、振った。
刃先は爪の手前で止まったのに、その先にあった鳥の脚の細い所が落ちた。
岩に降りると同時に刀を足元へ落とし、両腕を上げた。ハーピーが歌ではないただの悲鳴を上げて、残った片脚ではミアの重さを持てずに爪が開き、ミアが頭から落ちてくる。
受けきれずに2人とも岩に転がり、ミアの肩が俺の腹に食い込んだ。
「……怪我は」
「無いわ。あんたの上に落ちたから」
ミアは転がったまま落ちた弓の方へ手を伸ばしたが届かず、俺が拾って渡し、自分の刀を拾った。
上で脚を無くしたハーピーが歌を止めて縁の方へ流れていき、歌が1羽分減って、足がさっきより出るようになった。
「まだ3羽いる!」
ミアを掴み損ねた事で、残った3羽が同時に落ちてきた。
起き上がりかけた俺の背中へ1羽、ミアの頭へ1羽、もう1羽はその後ろから。
背中の1羽は避けられず、爪が外套の背を裂いて鱗で滑った。滑った先に刀を回して翼の付け根を斬ると、片翼になったハーピーが岩に落ちて、落ちた所で首を払った。
ミアの頭へ来た1羽は、ミアが転がって避けた所へ爪を立てて岩を削り、上がろうとした翼の付け根に至近からの矢が立って、岩に落ちて砂になった。
最後の1羽は、2羽が落ちたのを見て翼を返した。
上がって、戻ってこなかった。脚を落とした1羽と並んで谷の方へ低く飛んで、小さくなっていく。
【ハーピーを討伐しました】
【経験値 +500】
布を耳から外すと音が戻ってきて、風の音とミアの息の音だけになった。
ミアは足首を押さえていた。靴の革に爪の跡が3つずつ付いて、片方は革を貫いて中まで届いている。
「見せてくれ」
「あとで。先に矢を拾うわ」
矢は散っていた。ミアが吊られた時に矢筒から落ちた分と射った分を拾って回ると、台地の縁の向こうへ落ちた物があるらしく、縁から下を覗いても暗くて何も見えなかった。
「4本、戻らないわ」
「台地の縁の下に落ちたのか」
「取りに行かないわよ。……4本で済んだなら安いわ」
ミアは矢を数え直して矢筒に戻してから、靴を脱いで足首を見せた。爪の跡は皮膚まで届いて血が滲んでいたが深くはなく、応急手当の布を巻いている間にミアが言った。
「伸びたのは、岩に線を付けた時と同じ分だったのね」
「ああ」
「逆さだったから見えたわ。あんたの刃が爪の手前で止まって、もう一度跳んで、脚が落ちるまで」
「同じだ。それ以上は決めなかった」
「……今度は相手が岩じゃなくて、私の足だったけど」
ミアはそれ以上言わずに、布を巻き終わった足首を靴に戻して、一度踏んで確かめた。
その夜は縁から離れた所で寝た。
4日目は台地の縁に沿って歩いた。肩を裂かれた外套はミアが針で閉じてくれたが、縫い目が左右で違っていて、歩くたびに右の肩だけ突っ張った。
日が傾く頃に、縁が切れて谷になる所に着いた。
谷は台地を深く割っていて底まで岩の壁が続き、幅は狭く、向かいの壁まで矢なら届く。底に道があって、道は谷の奥へ向かって下りていた。
「風が谷に沿って1本で、奥まで読めるわ。……いるわよ。細長いのが1つ、道の真ん中」
「バジリスクか」
「たぶん。帳面に目を見るなって書いてあった方」
谷の口で荷を下ろして鑑定を向けると、谷の底は暗いが窓は開いた。
バジリスク Lv46
HP:3,200/3,200
スキル:石眼 Lv3/噛みつき Lv3/尾撃 Lv2
「Lv46でHPは3,200。トロルより上だ」
「厚いわね。……目を見るな、って、見なければいいのよね」
「目を見ないで、どこを斬るんだ」
ミアは答えなかったし、答えが無いのは2人とも分かっていた。
夜に知らない所へ入らないのは13層からの決まりなので、その日は谷に入らずに谷の口で火を焚いた。
5日目の朝、HPは86まで戻っていた。谷の道を下りる。
壁が両側から迫って空が細く、風は1本でミアの矢も1本で通る。道の岩は湿っていて、どこかで水が落ちる音がしていた。
道の真ん中に、それはいた。
岩の色をした細長い体に短い脚が4本付いていて、頭は鶏の嘴を太くしたような形で、嘴の上に目が2つ前を向いている。瞼は横に閉じ、閉じている間は目の場所が岩の模様と区別が付かない。尾は体と同じだけ長く、先が平たかった。
俺は目を見ないと決めて、胸の辺りを見ながら歩いた。
向こうが先に動いて、尾が横から来た。
壁と壁の間で避ける幅が無いのでしゃがむと、尾が頭の上を通って壁を削り、削れた岩が肩に落ちてきた。
立ち上がりながら胸元へ踏み込み、首の付け根に刃を入れた。
オーガと同じで皮が裂けて肉が見え、そこで止まる。
バジリスクが首を回して顔がこちらを向き、目を見ないと決めていた俺の目が、動いた顔を追ってしまった。
目が合った。
一息、息が吸えなかった。刀を握った手が開かず、足が岩に付いたまま動かず、手足が石だった。
尾が来て、避けられないまま腹に平たい尾の先が入り、壁まで飛んで背中から当たって胸当てが鳴った。
HP52/99。
34減っていて、壁に当たった分も入っている。息が戻ると石が解けて手が開いた。
「レン、目を見たでしょ!」
「見た。一息だけ動けなかった」
「その一息で尾が来るのよ!」
分かっている。目を見なければいい。だが目を見ないで、動く顔のどこを狙って斬ればいい。
バジリスクが口を開けて来た。首が伸びて嘴が俺の腰の高さまで来るのを横へ出て避けると、嘴が近くの壁を噛んで岩が砕けた。
首が横にあるので、胸を見たまま、さっき裂けた所と同じ筋に2度目を入れた。
皮の無い所に刃が深く通って、骨に当たって止まった。
引き抜く前に顔がこちらを向いたので、下を向いて岩を見た。目は見ていないのに顔が近く、息が臭い。
首が俺を押した。頭で壁へ押し付けてくる。目を見ないために下を向いている分、押されるのが見えず、胸当てが壁に鳴って腹の痛みが背中まで抜けた。
刀を引いたが、骨に噛んだ刃が抜けない。
両手で引いても、首ごと押し付けられていて刃に力が乗らず、足を引けば壁との間に尾が回ってきて退く場所が無い。顔は上げられない。上げればバジリスクの目がある。
頭の後ろで風が鳴って、矢がバジリスクの顔のすぐ横を抜けて壁に当たった。
「レン、あんたの頭が邪魔で射てない!」
射線に俺の頭がある。
壁を蹴った。押し付けられている背中を壁で押し返し、刀の柄を握ったまま体を横へずらすと、刃が骨から抜けて、顔との間に隙間が空いた。
その隙間を矢が抜けて、嘴の上の片方の目に立った。
鶏に似て鶏より低い声を出して、バジリスクが首を大きく振った。矢の立った側を岩に擦り付けるように頭を回し、残った目が俺の後ろのミアの方を向く。
尾が道の入口の方へ薙がれ、ミアが跳び退いて壁に張り付いた。
首の向きが変わった分、裂けた筋が俺の前に来ている。顔は向こうを向いていて、目の無い側がこちらだ。
踏み込んで刃を入れようとした所で、胴が転がるように回って、尾の付け根が横から俺を払った。
HP44/99。
岩に転がって、刀だけは離さなかった。腹の痛みが骨まで響いて、起き上がるのに一拍遅れる。
バジリスクの残った目が、起き上がった俺を探して回ってくるので、下を向いて岩だけを見た。
顔が俺の方へ回りきる前に、ミアの2本目が残った目に入った。
「顔がこっちを向いてない、今よ!」
顔を見ないまま、首の2度入れた筋へ体ごと刃を入れると、骨が通って首が落ち、尾が一度だけ岩を叩いて、砂になった。
【バジリスクを討伐しました】
【経験値 +1,000】
【Lv15 → Lv16】
【所持SP:2】
膝を突いた。HPの上限だけが増えて、腹は重いままで、尾の跡が胸当ての下に残っている。
窓を開くと、HPは44/103、所持SPは2で、次のレベルまでは4,500だった。3,000が4,500に増えている。
SPは穴の中では使わないと決めているし、2つあっても同じなので、窓を閉じた。
ミアが谷の道を下りてきて、壁の下に落ちた1本と、砂の中に残った2本を拾い上げ、矢尻を見てから3本とも矢筒に戻した。
「目を見るな、って書くのは簡単なのね」
「顔が動くんだ。動く物は、見るなと決めていても目で追ってしまう」
「2本目は、あんたが下を向いてたから射てたのよ。顔を上げてたら、あんたの頭が先にあったわ」
ミアは砂の中から魔石を拾った。トロルの物より一回り大きい。
それから俺の胸当てを見て、尾の跡の所を指で押した。
「胸当て、凹んでるわ」
「少しだけだ。鱗が無ければ腹が割れてた」
ミアは何も言わずに、凹んだ所をもう一度押してから手を離した。
谷の道は奥でさらに下りていて、5日目の残りを歩いて谷の底が少し広がる所で火を焚いた。
腹は横になると痛むので、火から離れた岩に腰を下ろし、刀を抜いて刃に付いたバジリスクの砂を布で拭った。拭っても鍔の近くの薄い黒は落ちないし、落ちる物でもない。
布を置いて、拭い残した砂を飛ばすだけのつもりで、火の無い方へ向けて刀を軽く振った。
振り始めた所へ、鍋を取りに火を回ってきたミアが入ってきた。
止めた。刃先は、揺れた髪の10センチ手前で止まった。
止まったのに、栗色の髪が一房、火の明かりの中を落ちていった。
結んだ髪の先が、10センチほど短くなっていた。
鍋が岩に落ちて豆が散った。
ミアは動かずに自分の髪の先に手をやり、短くなった所を指で確かめてから俺を見た。
「しまって。今すぐ」
刀を鞘に戻した。戻してからも、ミアは俺を見ていた。
「伸びろって思って振ったの」
「違う。砂を払っただけだ」
ミアは落ちた髪を拾わないで、俺の前に立った。
「手記の人は半年って書いてたんでしょ。慣れた頃が一番危ないって。相方の髪を切ったって」
「……書いてあった」
「あんたは3日よ。試してから3日で、私の髪が落ちたの」
声は大きくなかった。
「次は髪じゃないかもしれない。指かもしれないし、首かもしれない。あんたが砂を払うだけで、1歩先にいる私の首が落ちるかもしれないのよ」
答えられなかった。ミアの言う通りで、伸びろと思っていないのに刃先が伸びて、あの男が半年と書いた事が3日で起きた。
「前の人の相方は笑ったんでしょ、弓の形の時」
「……笑ったと書いてあった」
「笑って済むって言ったのは私よ。……済まなかったわ」
ミアは火の向こうへ戻って散った豆を1粒ずつ鍋に戻し、戻した鍋を火にかけて、自分の分だけ食べた。俺の椀には何も入らなかった。
それきり、ミアは一言も口をきかなかった。弓を膝に置いて見張りに座り、寝床は昨日より火から遠い所に敷いてある。
落ちた髪は岩の上に残ったままで、俺はそれを拾ったもののどうすればいいのか分からず、火の脇に置いた。ミアは見なかった。
刀を持って立った。
「向こうの岩で、刀を振る。こっちには向けない」
ミアは答えずに、俺が火から離れていくのを目で追っていた。
火の明かりがぎりぎり届く所に、人の背丈ほどの岩があった。その前に立って、火に背を向け、ミアのいる方を刃の向かない側にして、刀を抜いた。
伸びろとは思わずに、砂を払った時と同じにただ腕を動かすだけの一振りをすると、刃先は岩の手前で止まって線は付かなかった。
もう一度振っても付かず、もう一度振っても付かない。
10を越えた所で、線が付いた。伸びろとは思っていなかったのに、岩に筋が1本付いていた。
息を吐いて、刀を下ろした。
伸びろ、と思うだけでは、どこまでが俺の決めた分なのか自分でも分からない。呼ぶ名が要る。
あの男は、伸びる、としか書いていなかった。名前を付けなかったのか、付けたのに書かなかったのかは分からない。
闇刃。黒いのを闇と書く、とあの男は言った。その闇の刃で、字はそれでいい。
読みは、別にする。
前の世界で、画面の向こうの剣士たちが技を出す時に叫んでいた、あの読み方だ。二十六年生きて一度も口にした事がなく、口にする日が来るとも思っていなかった。
――ヴォイド・エッジ。
無い刃。見えない所にある刃。意味はそれで合っている。
声には出さなかった。ミアに聞かれていたら、笑われるより先に首を傾げられる。この世界で、この読みが分かる人間は一人もいない。あの男を除けば。
闇刃、と頭の中で呼んで振ると、線が付く。呼ばずに振ると、付かない。
伸びろと思わずに振って線が付かない事を確かめ、闇刃と呼んで振って線が付く事を確かめ、また伸びろと思わずに振る。伸ばしたくない時に伸びない事と、伸ばしたい時に伸びる事を、一振りごとに分けていく。
伸びろと思っていないのに伸びるのが、10に1つくらいあった。それがどういう時なのか、自分では分からない。腕が疲れてきた時か、火の方を気にした時か、それとも何も変わらないのか。
腕が重くなっても続けた。腹の痛みは、振っている間だけ忘れられた。
振り返ると、火の向こうでミアが起きていた。弓を膝に置いたまま、こちらを見ている。目が合っても何も言わず、目を逸らしもしなかった。
俺は岩に向き直って、また振った。
空が白む頃には、伸びろと思わずに振った何十本かが、どれも線を付けなくなっていた。闇刃と呼んだ時だけ線が付く。
伸ばしたくない時に伸びなくなったのか、ただ一晩たまたま伸びなかっただけなのか、俺には分からなかった。一晩で済む物だとは思っていない。
刀を鞘に戻した。岩には、数えきれない線が付いていた。
朝、ミアは髪を結び直していた。短くなった分を、昨日より高い所で縛っている。
火の脇に置いた髪の房は、無くなっていた。ミアが拾ったのか、風で飛んだのかは分からない。
ミアが紐に結び目を足し、矢を数えて、減った分を口に出した。
「6本。21層で2本、ここで4本」
それから俺の腰の刀を見て、俺の目を見た。昨日の夜から初めて、俺に向けて開いた口だった。
「1つ、約束して。私が1歩先にいる時は、刀を抜かないで。抜く時は、私がどこにいるか見てから抜いて」
「分かった。俺からも1つ。毎晩、伸びろと思わずに刀を振って、勝手に伸びないか確かめる。勝手に伸びたら、すぐお前に言う」
「言われても、私の髪は戻らないわよ。勝手に伸びた日は、その後はもう刀を抜かないで。寝るまで」
「……分かった。闇刃が勝手に出た日は、刀を使わない」
「……闇刃?」
「名前だ。伸びる、だと呼びにくい」
ミアは一度だけ口の中で繰り返し、少しだけ黙ってから頷いた。
「じゃあ約束ね」
俺も頷いた。
ミアはそれだけで荷を背負い、髪の先が昨日より短く揺れた。
谷の道は奥でまだ下りていて、6日目は谷の底を歩き、夕方に谷の壁に穴が開いているのを見つけた。階段が下りている。
その口で夜を明かして、朝、ミアが結び目を作った。
「21層と合わせて12日で2層。申告の40日まで、残り28日」
「25層の主まで、あと3層か」
「3つで28日なら、足りるわ」
俺は刀の柄に手をかけて、止めた。ミアが1歩先にいる。
手を下ろすと、ミアがそれを見ていた。
「……私がどこにいるか、見てからね」
ミアは頷いて階段の口へ歩き、振り返った。
「23層。帳面にあったのは大百足と、暗い所よ」
「暗い所はまだ先だろ」
「分からないわよ。帳面は道の役に立たないんだから」
俺が先に下りた。刀は抜かないままで。
22層、読んでいただきありがとうございます!
上から来るハーピーと、目を見てはいけないバジリスク。
そして5日目の夜の事。
次は23層へ下ります。しばらくお付き合いください!




