第八十九話 手記
レンとミアの方へ戻ります。
今回はBの札で開く神殿の書庫の回。穴の記録と、誰も読めない物。
かなり大事な回なので長めです。
次に潜る前の所まで。ゆっくり読んでください。
朝、三つ樽亭の食堂に下りると、マルタが鍋の蓋を取った所だった。
「神殿の書庫に行く」と言うと、マルタは蓋を戻してこちらを見た。
「Bの札、もう貰ったのかい」
「昨日」
「……二十層を、登録から三週間も経たずにね」
それ以上は言わなかった。粥を二杯よそって、俺とミアの前に置く。
「神殿は広場の像の裏手だよ。白い建物で、戸が一つしかないから分かる。札を見せれば書庫までは通してくれる」
「中に、穴の記録があるって聞いた」
「あるよ。帳面の写しが棚に並んでる。あとは読めない物がいくつか」
「読めない物?」
「昔の字で書いてある物さ。神殿が遺物って呼んでる。触って怒られるんじゃないよ、あの婆さんは口うるさいからね」
マルタはそれだけ言って、鍋の方へ戻った。
宿を出て、大通りを広場の方へ歩く。
朝の広場は人が多い。屋台の煙が低く流れて、串を焼く匂いがする。その真ん中に白い石の像が立っていた。ローブと、腰までの髪と、片手に薄い板。少し微笑んだ顔。
俺は足を止めなかった。ミアも止めない。像の前で立ち止まった日の事は、二人とも口に出さなくなっている。
像の裏手に回ると、白い石の建物があった。塔はない。この街のどこにも塔はないから、神殿にもない。四角い建物に、戸が一つ。
戸は開いていた。中は薄暗くて、石の床が冷たい。壁際に長い腰掛けが並んでいて、街の人が何人か座っている。祈っているのか、休んでいるのかは分からない。誰も声を出していない。
入ってすぐの所に、白い衣の老女が座っていた。椅子に腰かけて、膝の上に薄い板を置いている。像が持っているのと同じ形の板だ。
老女は俺たちを見て、それから俺の胸の札を見た。
「Bの札かい。書庫は奥だ。灯りは持ち込むんじゃないよ。火は駄目だ」
「読んでもいいのか。記録は」
「読むのは好きにしな。写しは持ち出せないよ。写したいなら自分で写しな」
老女が立ち上がって、奥の戸を開けた。
戸の向こうは、もう一つ部屋がある。
書庫は、思っていたより狭かった。
天井近くに小さな窓が並んでいて、そこから朝の光が入ってくる。棚が壁に沿って三方にあって、帳面の写しが層の順に並べてあった。一層から十層までは薄い。十一層から二十層までは少し厚い。
二十一層からは、棚が変わっていた。
帳面ではなく、紙の束が紐で括ってある。束の一つ一つに、組の名前が書いてある札が付いていた。組ごとに道が違うから、組ごとに束が分かれているのだろう。
老女は戸の脇に立ったまま、こちらを見ている。
ミアが束を一つ取って、紐を解いた。
「……道の事ばっかりね。右へ曲がって、水を渡って、崩れた所を迂回して。これ、次に入ったら全部違うんでしょ」
「受付がそう言ってた」
「じゃあ道は飛ばす。出た物だけ」
ミアが紙を一枚ずつめくって、魔物の名前の所で指を止める。俺は隣でそれを読んだ。
オーガ。トロル。ハーピー。大百足。
知らない名前が二つあった。バジリスクと、レイス。バジリスクの横には「目を見るな」とだけ書いてある。レイスの横には「暗い区画に出る。灯りが効かない」。
「暗い区画って」
「書いてない。ただ暗いって」
トロルの横には「斬っても塞がる。火」。ハーピーの横には「上。声を聞くな」。
短い。書いた者はそれ以上を書く暇がなかったか、書く気がなかったかのどちらかだ。
ミアが懐から紙と炭を出して、名前と、その横の短い注意を写していく。束を三つ分めくって、名前はほとんど同じだった。出る順は違う。出る層も違う。顔ぶれだけが同じだ。
四つ目の束は、途中で終わっていた。
二十四層の途中まで道が書いてあって、その先の紙が無い。最後の紙の下の方に、字が乱れている。右へ、とだけ書いて、その右が何なのかは無い。
束の札に書いてある組の名前の横に、別の手で小さく、戻らず、と書き足してあった。
ミアはその束を、他の束より静かに元へ戻した。
「三十層の主の事は」
「……無いわね。三十層まで行った組の束がない」
老女が、戸の脇から言った。
「三十層の主を倒した組の記録は管理局が持ってる。ここにあるのは、そこまで行けなかった組の物さ」
行けなかった組。戻った組と、戻らなかった組と。
ミアは聞き返さなかった。写しを畳んで懐へ入れる。
棚の一番奥が、他と違っていた。
帳面でも紙の束でもなく、石の板と、革の巻物と、木の箱がいくつか並んでいる。どれも古い。板には文字が彫ってあって、それは神代の文字だった。王都の書庫の禁書と同じ字だ。
俺は読めるが、読まなかった。老女が見ている。
その並びの端に、一冊だけ、綴りがあった。
革の表紙で、紐で綴じてある。厚くはない。表紙に何も書いていない。
「それかい」
老女の声が少しだけ変わった。
「山の向こうから来た男が置いていったって伝わってる。いつの事かは誰も知らない。誰も読めないから、遺物として置いてあるのさ」
「読んでも」
「開くのはいいよ。破ったら承知しないからね」
俺は綴りを棚から取った。革は乾いて硬く、紐は切れかけている。開くと、紙が少し浮いた。
字が、見えた。
縦書きだった。ひらがなと漢字。黒い墨で、少し右に傾いた癖のある字。
あの遺構の、扉の奥の部屋の壁と同じ字だ。
俺の国の字だ。
隣でミアが息を止めたのが分かった。ミアは字を読めない。でも、俺の顔を見れば分かる。
老女は戸の脇から動かない。俺の顔は見えていないはずだ。
俺は綴りを机に置いて、最初の頁から読んだ。
――山を越えた。
――教会の連中は山の手前で止まった。この国は塔を建てさせない。聖騎士も入れない。良い国だ。
――追われて来た。理由は書かない。読める奴なら、たぶん同じ理由で来る。
最初の頁は、それだけだった。字は大きくて、急いで書いた跡がある。
次の頁。
――街に着いた。広場に像がある。
――あの女だ。俺を落とした女と、同じ顔をしている。ここの連中はあれを神と呼んでいる。
――笑ったら変な顔をされたので、やめた。
俺は頁をめくる手を止めた。
像の前で、俺は本当にリセだ、と言った。それしか言えなかった。
この男は笑ったらしい。
ミアが横から覗いて、小さく聞いた。
「何て書いてあるの」
「……後で話す」
次の頁から、字が小さくなった。急がずに書いている。
――宿を取った。金は山を越える前に使い切ったので、あいつの矢を一束売った。あいつは文句を言わなかった。言わないのが一番怖い。
――穴に潜った。この国は穴で稼げる。教会の遺構みたいに紋章も無い。
――一層は狭い。刀が振れない。突きだけで鼠を殺した。あいつに笑われた。
――十層より下に空がある。理由はここの連中も知らない。俺も知らん。見るだけにしておけ。
――あいつは星を見て、一度だけ泣いた。理由は聞かなかった。
突きだけで鼠を殺した。
俺も同じだった。一層の狭さは、三百年経っても変わっていないらしい。
あいつ。
名前はない。ここから先、何度も出てくる「あいつ」に、名前は一度も付いていなかった。
――あいつは毎晩、矢の数を数える。減っていなくても数える。俺はそれを見てから寝る。
――十五層の主を、二人でやった。杖を先に射ろとあいつが言って、その通りにしたら楽だった。あいつの言う通りにすると、大体楽だ。
――二十層の主は、一人でやれと言われた。やった。あいつは腕を組んで見ていた。
俺は顔を上げた。
ミアが、懐の写しを押さえたまま、俺を見ている。俺が何を読んだかは知らない。
顔を戻した。
――ここからは、黒い物の事を書く。黒いの、じゃ分からんだろうから、闇と書く。
頁が変わっていた。字がもう一段小さい。
――読める奴は、たぶん闇を持っている。持っていないなら、ここから先は読まなくていい。
――俺の闇は、光を拒んだ時に出た。教会の連中が何かをやろうとして、入ってこなかった分が、こぼれて闇になった。
――最初は何も分からなかった。刀が黒くなる。黒くなると、何かが違う。それだけだった。
同じだ。
儀式の夜、俺の胸の前で止まった光が、床に落ちて黒くなった。刀が黒くなるのは、ヴァルドの矢を消した時が最初だった。何かが違う、と思った。それだけだった。
――分かった事を書く。俺の場合は、だ。読める奴のがどうかは知らん。
――光を食うと、刃が黒くなる。黒い間、力が強くなって、足が速くなって、魔力も増えた。体は丈夫にならなかった。斬られれば普通に斬られる。
――光が来なくなると、闇は引く。引いた後に、少しだけ残る。残った分は消えない。たくさん食った時ほど、たくさん残った。
――山で聖騎士に撃たれ続けた時が一番黒くなった。あの時だけ、あいつより速く走れた。
ハルディスの光を浴びた後、刃の黒さだけが戦う前より濃く残った。強い光ほど後に残るのか、と思った。
この男も同じ事を書いている。
ヴァルドの矢を百本浴びた霧の中で、俺は光る掌へ走った。あの時の足は、俺の足ではなかった気がする。
――ここからが本題だ。
――闇には、光を食わなくても使える物がある。俺はそれに気づくまで、随分かかった。光を食わなきゃ何もできないと思っていたからだ。
俺は息を吐いた。
穴の中に、光を撃ってくる物はいない。だから闇は穴では役に立たないと思っていた。ミアにもそう言った。
――使えると言っても、最初は思わないと出ない。思うというのは、祈る事でも力む事でもない。そうなっている、と決める事だ。
――最初の二十日は、何をやっても出なかった。影に立って、消えろ、と念じた。何も起きない。力んで刀を振った。何も起きない。
――出たのは、諦めた日だった。暗い廊下で疲れて座り込んで、もう影と変わらん、と思った。あいつが、どこにいるの、と言った。
――俺の時はこうだった。順番は覚えている限りで書く。
――一つ目。影の中に立って、自分が影だと決めた。そうしたら、あいつが俺を見失った。あいつの目は良い。それでも見失った。影から出たら戻った。
――二つ目。刀を振る時、刃先がもっと先まである、と決めた。届かないはずの所に当たった。どれだけ伸びるかは決めた分だけで、欲張ると出なかった。
――三つ目。相手が俺を読もうとしているのが分かる時、読ませない、と決めた。相手が首を傾げた。たぶん、何も見えなかったんだと思う。
――四つ目。離れた所に光がある時、足元の影をそっちへ伸ばして、取りに行かせた。光と言っても日の光じゃない。教会の連中が撃ってくる光魔法の事だ。日向で試したが何も起きなかった。伸びた影が光魔法を食って、刃が黒くなった。
――五つ目。闇を、形にした。あいつの弓の形にしてみた事がある。できた。あいつに笑われた。それで一度しかやっていない。
俺は五つ目を二度読んだ。
弓の形。
ミアの弓の形に、闇を。この男は、やったらしい。笑われたらしい。
三つ目を、もう一度読んだ。
読もうとしている相手。鑑定だ。ユーリに木剣で三本取られたのは、段を読まれていたからだった。ハルディスは雪原で俺の窓を覗いて、名前の無い行を見つけた。
読ませない、と決める。それだけで、首を傾げるらしい。
――慣れると、決めなくても出るようになった。影に立てば勝手に消えるし、刃先は勝手に伸びる。そこまで来るのに、俺は半年かかった。
――決めなくても出るようになった頃が一番危ない。出したくない時にも出る。刃先が勝手に伸びて、横にいたあいつの髪を一房切った事がある。
頁をめくる。
次の頁は、字が変わっていた。小さいまま、少しだけ丸い。
――ここから先は、読まなくていい。俺の事だ。
読まなくていい、と書いてある。
俺は読んだ。
――セラ。あいつの名前だ。ここまで書かなかったのは、書くと帰りたくなるからだ。
――この世界の仕組みを、知ってしまった。知らなければよかった、とは思わない。でも知った以上、ここにはいられない。
――このままこの国で、セラと二人で穴に潜って、稼いで、飯を食って、それだけで過ごすのも良かった。できそうにないな。
――教会はまだ諦めていない。山の向こうで、何かを待っている。
――セラが言う。森の下に、何かいる、と。
――戻る事にした。あの森の、門の奥へ。
――この気持ちを、セラに伝えたかったな。伝えないまま行く事になりそうだ。
――もし、
そこで、紙が破れていた。
破れたのではない。破り取られている。綴じ紐の所に、紙の端だけが残っていた。何枚か分。残った端は、綴りの中で一番古く見えた。
俺はしばらく、その紙の端を見ていた。
伝えたかったな、と書いてある。
伝えればよかったのに、と俺は思った。それだけだった。
老女が戸の脇から言った。
「最後の頁は、置いていかれた時からそうだったって話さ」
俺は綴りを閉じた。
革の表紙を撫でて、棚の、元の場所に戻す。隣の石の板と同じ高さに。
「ありがとう」
「……読めたのかい」
老女の声は、聞く声だった。責める声でも、驚く声でもない。
俺は答えなかった。答えないで、ミアと一緒に戸を出た。
神殿を出ると、広場の光が目に刺さった。
像の裏から回って、正面に出る。
俺は今度は、足を止めた。
白い石の顔。少し微笑んでいる。
この男も、この顔の前に立った。笑ったらしい。笑って、変な顔をされて、やめたらしい。
俺は笑わなかった。笑えなかった。
ただ、少しだけ、分かった気がした。この男が笑った理由が。
「……レン」
「宿で話す」
ミアは頷いて、歩き出した。
少し歩いてから、像の方を振り返らずに言った。
「像の所も、何か書いてあったのね」
「俺を落とした女と同じ顔だ、って」
「……じゃあ、あんたの前にも落ちてきた人がいたって事」
「そうなる」
ミアはそれ以上聞かなかった。聞かないで、宿までの道を俺の半歩前を歩いた。
三つ樽亭の部屋で、俺は話した。
俺と同じ所から来た男が書いた事。山を越えた事。像の事。穴の事。一層で突きしか使えなかった事。
闇の事は、ゆっくり話した。あの男が闇と呼んでいた物。光魔法を食うと力が強くなって、足が速くなって、魔力も増える。体は丈夫にならない。光が来なくなると引いて、少しだけ残る。
それから、光が無くても使える物が五つある事。
読まなくていい、と書いてあった所は話さなかった。
ミアは最後まで黙って聞いていた。
「……弓の形」
「そう書いてあった。笑われたって」
「私も笑うわ、たぶん」
ミアは笑わなかった。
「五つのうち、穴で使えるのはどれ」
「影に沈むのと、刃先が伸びるのと。読ませないのは、読んでくる相手がいない。光を取りに行くのも、光がない」
「形を作るのは」
「一度しかやってないって書いてあった。真似はしない」
ミアが指を折った。二本。
「沈むのは、先に見つける側の私が困るわね。あんたが消えたら、どこにいるか分からなくなる」
「使う時は言う」
「言ってから消えて。黙って消えたら、矢で探すわよ」
本気の顔だった。
「あいつ、って書いてある人の事は」
「名前は無い。毎晩、矢の数を数えるって」
ミアは何も言わなかった。
しばらくして、矢筒の方を見た。それから目を戻した。
「……私も数えてるわね」
「知ってる」
それ以上は、二人とも言わなかった。
次の日は、支度に使った。
矢を十束。道具屋の親父が、束を数えながら「ひと月か」と言った。俺は頷いた。親父はそれ以上聞かない。
食べ物を四十日分。干し肉と、硬い麺麭と、豆。水袋はマルタの物置から、前のより大きいのを二つ。縄と油と刻み蝋燭は、前の分を数えて足りない分だけ足した。
マルタが物置の戸口に立って、荷を見ていた。
「ひと月かい」
「ああ」
「二十一層から下は、帳面が薄い理由がある。読んだろ」
「組ごとに道が違う」
「それだけじゃないよ。戻ってきた組が少ないから薄いんだ」
マルタはそれを言ってから、少し黙った。
「……しっかり食って、しっかり寝て、危ないと思ったら戻っておいで。それだけだよ」
夕方の食堂は、潜る者で混んでいた。
隣の卓に、Cの札を下げた組が三人いる。二十層の主をやるかどうかで揉めていた。やると言う男と、まだ早いと言う男と、黙って飲んでいる男。
やると言う男が、俺の胸の札を見て、口を閉じた。それから小さく、二十一層から下は組が消えると聞いた、と言った。誰に言ったのかは分からない。黙って飲んでいた男が、聞いた聞いた、暗い所で灯りが消えて、それきりだと、と返す。
ミアは煮込みを口に運んだまま、何も言わなかった。俺も言わなかった。
帳面に、暗い区画、灯りが効かない、と書いてあった。それ以上の事は、ここの誰も知らない。
荷を部屋に運び込んで、ミアが床に並べた。
矢は十束。食べ物は四十日。毛布二枚。鍋一つ。水袋二つ。縄。油。蝋燭。
並べ終わって、ミアはそれを一つずつ指で数えた。減っていなくても数える。
俺はそれを見てから、刀を抜いた。
刃は鋼の色だった。
光を食っていないから、黒くはない。ただ、鍔の近くに、薄い黒が残っている。雪原でハルディスの光を浴びた分。全快しても引かなかった分。
光魔法は、ここにはない。
光が無くても使える物が五つある、と、あの男は書いた。
「ミア。灯り、落としてくれ」
「……何するの」
「試す」
「言ってから、ね」
「言ってる」
ミアが蝋燭を消した。
部屋が暗くなる。窓から広場の灯りが少し入って、床に細く筋を作っている。それ以外は影だ。
俺は、壁際の影の中に立った。
思う。祈るのでも力むのでもなく、そうなっている、と決める。
俺は影だ。
何も起きなかった。
あの男は二十日かかったと書いていた。一度で出るとは思っていない。
もう一度。
俺は影の中にいる。影と、同じ物だ。
足元が、少し冷えた気がした。
冷えたのではない。足と床の間の、境目が薄くなったような。
「……レン?」
ミアの声が、俺のいる所を探していた。
声は俺の方を向いていない。少しずれた所を向いている。
「どこ行ったの」
俺は影から一歩出た。
ミアの目が、こちらへ来た。
「……ここにいる」
「見えなかった。今、本当に見えなかったわよ。声も、どこから来てるか分からなかった」
ミアの声が、少しだけ高かった。
俺は自分の手を見た。暗いから、よく見えない。見えないのは暗いからだ。それだけのはずだった。
もう一度、影に戻った。
決める。
今度は、最初から足元が薄かった。
ミアが息を止めるのが分かった。
それから一息分の間があって、俺は影から出た。
「……本当に、書いてあった通りなのね」
「俺の場合も、らしい」
「二十日かかったって言ってなかった?」
「言った」
「あんたは一晩ね。……まあ、SPが1の人だものね」
ミアは蝋燭に火を点けなかった。暗いまま、床の荷の横に座って、矢筒を膝に乗せた。
「明日、潜るわよ」
「ああ」
「中で試すのは、安全な時だけにして」
「分かってる」
ミアが矢を数え始めた。
減っていない。それでも数える。
俺は刀を鞘に戻して、少し外の風に当たってくると言って部屋を出た。
階段を下りると、食堂はもう片付いていて、マルタが奥で樽を転がす音だけがしている。裏の戸を押して外へ出た。
三つ樽亭の裏は厩で、馬が三頭、暗がりの中で鼻を鳴らしている。その中の一頭は、山を越えてきた俺たちの馬だ。俺を見て耳を一度動かして、また飼葉に戻った。
厩の奥に物置の壁があって、その先に、誰も通らない狭い裏庭がある。壁に挟まれて細長く、昼でも日が差さないような所だ。
広場の灯りはここまで届かない。空だけが明るい。
見上げると、星が出ていた。
穴の十層より下で見た星と、同じ星なのかは分からない。あそこの星は、見ている間に一つも動かなかった。ここの星は、長く見ていれば少しずつ動く。それが当たり前なのに、少し変な気がした。
あいつは星を見て、一度だけ泣いた。
あの男はそう書いていた。理由は聞かなかった、と。
どっちの星を見て泣いたのかは、書いていなかった。
五つ目。
闇を、形にする。あの男はそれを一度だけやって、笑われて、それきりやめたと書いていた。
ミアの前でやれば、同じ事になる。たぶん笑わない。笑わないで、黙って見る。それの方が困る。
右手を、前に出した。
決める。弓の形。ミアが背負っている、弦の無い黒木の弓の形。長さも、曲がり方も、頭の中にはある。毎晩見ている物だ。
何も出なかった。
手の先に、暗がりがあるだけだ。影ですらない。ただ夜が暗いだけだった。
もう一度。
弓の形だ、と決める。影に沈んだ時と同じ決め方で。
出ない。
沈む時は、足元が薄くなった。あれは影の中に立っていたからだ。影はそこにあって、俺はそれと同じ物になるだけでよかった。
形を作るのは違う。無い物を、出す。出す物が、ここには無い。
刀を抜いた。
星明かりの下で、刃は鈍く光っている。鍔の近くの薄い黒だけが、光らない。
星を映さないのだ。鋼の所は星を映して、黒い所は映さない。峠の夜に焚き火を映さなかった時と同じだった。
この黒だけでは、たぶん足りない。弓一本分の闇が、ここには無い。
刃先を伸ばす二つ目なら、この黒でも出るのかもしれない。でも、それは試さない。あの男は、勝手に伸びた刃先で隣の髪を切ったと書いていた。狭い裏庭で、厩の馬の首が、刃先の向こうにある。
刀を鞘に戻した。
それでも何度かやった。手を出して、決めて、何も出なくて、手を下ろす。
弓が無理なら、もっと簡単な形はどうかと思って、ただの棒の形を決めてみた。長さも曲がりも要らない、指一本分の黒い棒。
それも出なかった。
決め方が足りないのか、物が足りないのか、分からない。分からないまま、同じ事を繰り返す。
広場の方で、屋台を畳む音がしている。夜の風が壁の間を抜けて、汗をかいていない背中が冷えた。
影に沈んだ時は、二度目で出た。あれが早すぎただけで、こっちが普通なのかもしれない。あの男は二十日かかったと書いていた。俺は、まだ一晩だ。
厩の馬が、こちらを見ているのが分かった。
俺たちの馬だ。飼葉を食べるのをやめて、首だけこちらへ向けている。目が星を映して、二つ、暗がりの中で光っていた。
「……何でもない」
馬に言っても仕方がない。それでも言った。馬は鼻を一つ鳴らして、飼葉に戻った。
やめた。
形にもならない物を、これ以上やっても仕方がない。あの男は、光を食った後にやったのかもしれない。黒いうちに。そこまでは書いていなかった。
裏庭を出て、厩の前で足を止めた。
馬の首を一度だけ撫でて、宿の窓を見上げる。
部屋の窓は暗いままだった。中でミアが数えているのか、寝たのかは、ここからでは分からない。
分からなくていい。見られていなければ、笑われもしない。
部屋に戻ると、ミアは毛布の上に座って、矢筒を膝に乗せたまま目を閉じていた。
俺は影の無い所に座った。
明日からひと月、俺たちは帳面の薄い所へ行く。
手記、読み終わりました。
三百年前の「俺の場合は」。答えではなく、先に行った人の覚え書きです。
闇の事と、セラの事と、読まなくていいと書いてあった頁と、破り取られた最後。
そして宿の暗がりで、初めて自分で決めて使った物。
次は二十一層から。帳面が薄い所です。読んでくださってありがとうございます。




