第八十八話 待つ(ユーリ視点)
ユーリ、王都で待つ回です。
治しに来る人がいて、噂が上がってきて、師匠が帰ってくる。でも会えない。
そして夜の務め。地下で見る物と、廊下で会う人。
読み終えた時に、少しだけ嫌な感じが残るはずです。しばらくお付き合いください。
訓練場の朝は、出る前と同じ音がしていた。
木剣と木剣がぶつかる音、教官の短い声、石畳を踏む靴。私はその端で一人、木剣を振る。相手はいない。七聖に稽古を付けられる者は、この訓練場に一人しかいなくて、その一人は砦にいる。
振りながら、竜の喉を抜けた時の感じを探していた。
光が、前より遠くまで伸びた。あの感じ。
木剣には光が乗らない。乗らないのは分かっていて、それでも振る。腕の中に残っている物を、形にしておきたかった。
真剣を抜けば乗るのだろう。けれど訓練場で輝剣を出せば、周りの騎士が稽古をやめてこちらを見る。見られながら確かめたい物ではない。
汗が頬の焼けた所に染みて、少しだけ痛んだ。
部屋に戻ると、戸の前に治癒騎士が立っていた。
白い外套の襟裏に「四」の徽章。顔は知っている。王都の遺構から戻った日に、レンを治しに来た二人のうちの一人で、名前はベルトという。
「第七聖。第四聖の仰せで参りました。お顔に傷を残すな、と」
ベルトは私の頬を見て、それから目を伏せた。目を伏せるのは、七聖に対する礼儀というより、この人の癖なのだと思う。レンを治した時もそうだった。
断る理由は無い。頬の焼けは残しておいても何の役にも立たない。
部屋に入れて、椅子に座った。
ベルトの手が頬に当たって、温かい物が皮膚の下に入ってくる。焼けた所が内側から押し上げられるように、少しずつ平らになっていく。
師匠の治癒とは違う。師匠のは、熱い物を無理に押し込む感じがする。この人のは静かだ。治す事を仕事にしている人の手だ。
「……竜を、斬られたと伺いました」
「一匹だけです。砦の方は、師匠が」
「はい。そちらも、伺っております」
それ以上は何も聞かなかった。手が離れて、頬の焼けは消えていた。
ベルトが戸を出る時、私はその白い外套の背中を見ていた。
胸当ての内側の包みの中に、この外套と同じ「四」の刺繍が入った胸当ての破片がある。王都の遺構の、捨て場の奥で拾った物。
この人は、知っているのだろうか。自分の隊の誰かが、あそこに捨てられていた事を。
聞かなかった。聞けば、私が知っている事を知られる。
噂が大聖堂まで上がってきたのは、それから何日か後だった。
最初に聞いたのは、廊下で法衣が二人、声を落として話しているのを通り過ぎた時だ。
「砦の使いが戻ったそうだ。第二聖が、竜を」
「竜?」
「翼の無い、山のような。一人で、首を落とされたと」
「……砦を一つ丸ごと、の次は竜か」
法衣は私に気づいて、口を閉じた。
私は何も言わずに通り過ぎる。
竜。
私の斬った物とは違う。翼の無い、山のような物。師匠はそれを一人で、たぶん笑いながら。
どんな顔で斬ったのかは、見なくても分かった。私が十五の時から見てきた顔だ。
噂は中庭にも、厩にも、訓練場にも広がった。若い騎士が、第二聖は人ではないと言うのを聞いた。言った騎士は、私が後ろにいる事に気づいて、真っ青になって頭を下げた。
私は怒らなかった。怒る理由が無い。師匠が人でないと言われるのは、初めてではない。
師匠が戻ったのは、噂より何日も遅れてだった。
私は窓から見ていた。
中庭の向こう、大聖堂の石段を、白い長上着が上がっていく。供はいない。馬は門に預けてきたのだろう。
長上着の裾が、片側だけ焼けていた。
師匠の服が焼けたのを、私は初めて見た。雪原でも、訓練場でも、砦の噂の中でも、師匠の服は白いままだった。
師匠は一度も顔を上げなかった。石段を上がりきって、扉の中へ消える。
私は部屋を出て、七聖の棟の廊下を奥へ歩いた。
師匠の部屋の前に、法衣が一人立っていた。見た事のない顔だ。若くて、私を見ても目を伏せない。
「第二聖には、次の命があるまで、どなたもお会いになれません」
「私は弟子です」
「どなたも、と命じられております」
戸は閉まっている。戸の向こうで、音はしない。
師匠は中にいるはずだ。いて、私がここにいる事を、たぶん知っている。知っていて、戸を開けない。開けろと命じられていないから。
私は戸に手を伸ばさなかった。
伸ばせば、法衣が止める。止めるこの人を、私は斬れない。斬らないと決めているのではなく、斬る理由が無い。
頭を下げて、廊下を戻った。
老司教に呼ばれたのは、その翌日だった。
謁見の間の手前の、机が一つの部屋。老司教は立ったまま、私を見ずに言う。
「地下の聖堂と書庫の見回りを、お前に任せる。夜だ。日が落ちてから、鐘が鳴るまで」
「……私が、ですか」
「七聖が一人、手空きでいる。使わぬ手は無い」
七聖が地下の番をする事は、記録にない。あそこは法衣の番人が二人、交代で立つ場所だ。
私は聞かなかった。聞いても答える顔ではない。
老司教が紙に目を落としながら、独り言のように続けた。
「第四聖が、お前を推した。夜は若い者の方がいい、と」
第四聖が。
私は何も言わずに頭を下げた。
その夜から、私は地下へ降りた。
大聖堂の裏の小さな扉から石段を下り、書庫の前を通り過ぎて、さらに下の石段。壁の魔石はほとんど無く、持たされた灯りだけが頼りになる。
石段の終わりに鉄の扉。番人の法衣が私を見て、黙って鍵を開けた。
開けると、中は白かった。
儀式の夜、ここは光で溢れていた。今は灯り一つで、白い石の床が灰色に見える。
天井は高く、奥に段が三つ、その上に台。
台の後ろに、白い布は無かった。
あの夜、天井から床まで垂れていて、その向こうから光が来ていた布。今は外されて、台の後ろは壁がむき出しになっている。
壁には何も無い。布の向こうにあった物も、無い。
どこへ運んだのかは、私の知る事ではない。
段の手前に、白い線の円がある。
レンが立たされた円。
私はその縁に立って、灯りを下に向けた。
円の中の石は、周りの石より少しだけ黒い。磨いた跡がある。磨いて、落ちきらなかった物。
あの夜、ここで光が黒くなった。
私はそれを段の上から見ていた。命令通りに隣に立って、命令通りに刀を預かって、命令通りに牢へ連れて行こうとした。
円の中には、入らなかった。
書庫は、地下聖堂の一つ上にある。
夜の書庫は、棚の影が長い。灯りを机に置いて、私は七聖の棚から一冊の記録を抜いた。
開く場所は分かっている。前に、レンと二人で写した所だ。
第五聖ガラン。北へ巡礼。
日付は古く、その後の行は無い。戻った記録も、死んだ記録も。北へ行って、それきり。
七聖が一人消えて、誰もその席の事を言わない。第六聖が死んで、老司教は席が空いたと言った。第五聖の席は、空いたとも言われない。
私は記録を棚に戻した。
禁書の棚は書庫の奥にある。神代の文字で書かれた物が並んでいて、私には読めない。
レンは読めた。読めて、私に一行だけ教えた。階梯の外には、風を引く者が伴う、と。
あの時はまだ、ミアさんが無弦を引くのを見ていなかった。
灯りを持って、書庫を出た。
廊下に、人が立っていた。
灯りは持っていない。暗い廊下の壁際に、穏やかな顔で手を組んで立っている。
第四聖イグナス。
「第七聖。夜番、よく引き受けてくださいました」
声は柔らかくて、少し低い。謁見の間で聞くのと同じ声だ。
「推してくださったと、伺いました」
「ええ。若い方の方が、夜は目が利きますから」
イグナスは私の頬を見た。治った頬を。
「ベルトの手は、よく効いたようですね」
「はい。……ありがとうございました」
「礼を言われる事ではありません。七聖のお顔に傷が残るのは、教会の損ですから」
損。
この人は、そういう言い方をする。師匠はしない。師匠は、損も得も言わない。
「竜は、いかがでしたか」
「一匹でした。翼のある物が」
「飛ぶ物を、一人で。……お弟子は、師匠に似ておられませんね」
似ていない。
それは私が一番知っている事で、他人に言われた事はなかった。
「それは、良い事です」
イグナスはそう言って、微笑んだ。
何が良いのかは言わない。言わないまま、私の横を通って、書庫の中へ入っていく。灯りも持たずに。
夜に書庫へ来る七聖を、私は師匠しか知らなかった。今、二人目を知った。
鐘が鳴って、私は地上へ上がった。
空はまだ暗く、東が少しだけ薄い。
訓練場は誰もいない。
私は真剣を抜いた。
輝剣。
刃に光が乗る。
振る。
光が刃から伸びて、訓練場の端の壁まで届いた。壁の石に、白い筋が一本付く。
届いた。
前は届かなかった距離だ。師匠と向かい合った時、師匠は壁より近くにいて、それでも届かなかった。
光を消す。
石の筋はしばらく残って、それから薄くなって消えた。
見ている者は誰もいない。
七聖の棟を見上げた。
師匠の部屋の窓は、暗かった。
ユーリ、待つ回でした。
治してくれる人、推してくれる人、夜に書庫で会う人。全部同じ隊の人です。
師匠は帰ってきたけれど戸は開かず、ユーリの光だけが前より伸びている。
教会側はここで一区切り。次はレンたちの穴へ戻ります。読んでくださってありがとうございます。




