第八十五話 帯(ハルディス視点)
砦の続きです。ハルディス視点のまま。
門の前は片付けたので、今回は平野の帯を押し返す話。
途中で王都から使いが来ます。何を持ってくるかは本文で。
しばらくお付き合いください。
夜明け前に東の門を開けさせた。
門の前の氷はまだ残っていて、凍ったまま首のない魔物が、夜の間に何匹か倒れて砕けていた。その間を抜けて平野へ出る。
後ろで門が閉まる。昨日と同じ音だ。
平野は霧が出ていた。朝の霧で、膝の高さまでしかない。その上に、黒い帯が見える。昨日よりこちらへ寄っている。門の前を片付けた事を、向こうは知っている。空いた所へ流れて来るのは、水と同じだ。
歩く。
霧の中で、小さい物が何度か足元に来た。鼠ほどの魔物で、靴を噛もうとする。踏むだけでいい。
帯の手前で足を止めた。
近くで見ると帯は帯ではない。狼と、ゴブリンと、オークと、見た事のない形の物が、それぞれ勝手に群れて、群れ同士がくっついて一本に見えているだけだ。一番手前は狼。私の匂いを嗅いで、頭を低くしている。
威圧を出した。
手前の狼が止まる。その後ろのゴブリンも。でもその後ろは止まらない。威圧は届く所までしか効かない。帯は、届く所より長い。
だから手前だけでいい。
剣を抜いて、切っ先を地面に当てた。霜が走って、止まっている狼の足を掴む。ゴブリンの膝まで。一度に凍らせるのは、威圧が届いている分だけだ。それより奥は、まだ動いている。奥の動いている物が、凍った手前の物を押して来る。
押されて、凍った狼が倒れる。氷ごと倒れて、砕ける。砕けた所から、後ろのオークが出てくる。
そこを斬る。
首を払って、次のオークが来る前に、地面にまた霜を入れる。凍る。押される。倒れる。砕ける。出てくる。斬る。
同じ事を、日が高くなるまで続けた。
帯の手前が、少しだけ下がった。
門から見れば分からないくらいだ。でも私には分かる。朝に立った所より、今立っている所の方が、森に近い。
日が傾く前に砦へ戻った。長上着の裾が血で重い。
門の内側で砦の長が待っていた。昨日より目の下が黒い。
「どれほど、押せましたか」
「少し」
「……明日も」
「毎日よ。終わるまで」
長は何も言わなかった。言いたい事があったのかもしれない。
次の日も、その次の日も、同じ事をした。
夜明け前に出て、帯の手前を凍らせて、押されて砕けた所を斬って、日が傾いたら戻る。帯は毎日少しずつ森の方へ下がる。下がった分の平野に、凍って砕けた魔物の体が残る。
何日目かの朝、門の外に兵が並んでいた。
鎧を着て、槍と火を持っている。長が先頭にいた。
「後ろに、付かせてください。凍った物を砕いて、焼きます。放っておくと、夜の間に溶けて動く物がいます」
溶けて動くのは知っていた。朝に歩くと、昨日凍らせた所に、昨日はいなかった狼が倒れている事がある。半分凍ったまま、腹だけ動かしている物。
「好きにしなさい。私の後ろにいる間は、私を見ないで。見るなら帯を見て」
長が頷いて、兵が後ろに付いた。
その日から、私の後ろで音がするようになった。氷を砕く音と、火の音と、たまに人の声。声は短い。誰かが「右」と言って、誰かが槍を突く音がする。
私は振り向かなかった。私の仕事は前だけだ。後ろは、後ろの人の仕事。
帯の下がり方が、少し速くなった。
朝、門の外に出た時に、平野の匂いが変わっていた。焼いた肉の匂いが、森の方へ押されて、代わりに森の匂いが強くなっている。帯が森に近づいた分だけ、森が近い。
長が後ろで言った。
「このまま行けば、森の縁まで――」
言い終える前に、平野が揺れた。
足の裏から来る。地面そのものが、何かを運んでいる揺れだ。
帯の奥が、割れた。
黒い帯の真ん中が盛り上がって、狼とゴブリンが左右へ転がり落ちる。その下から、盛り上がった物が立ち上がった。
竜だった。
翼はない。背丈は砦の壁ほど。鱗は岩の色で、岩のように厚い。頭は長くて、口の端から黄色い牙がはみ出している。
記録で読んだ事はある。魔物領域の一番奥に、翼のない竜がいる、と。出てきた記録はなかった。
竜が、足元の魔物を踏んだ。踏まれたオークが音も立てずに潰れて、竜は気にしない。踏みながらこちらへ来る。
後ろで長が何か叫んで、兵が下がる音がした。
私は下がらなかった。威圧を出す。
帯の手前が止まる。竜は止まらない。
怖い物を知らない物には、効かない。知っていた。
竜の口が開いた。
喉の奥が赤い。
私は剣を上げて、自分の前に氷を立てた。平野の地面から、壁になるくらいの厚さで、一気に。
火が来た。
氷の壁の向こうが赤くなって、壁が白い湯気になる。湯気の向こうから、火が壁を抜けて来る。
壁が持たない。
私は後ろへ跳んだ。
跳ぶのは、雪原でユーリの剣が袖を裂いた時以来だ。あの時は半歩。今は、自分の背丈の何倍か。
長上着の裾が焼けた。火が足の方まで追ってきて、裾を切って、脛の皮を一枚持っていった。
地面に降りる。湯気が平野に広がって、竜の姿が白い中に消えた。
湯気の中で、鱗の擦れる音がする。右か。
右へ剣を向けた所へ、尻尾が来た。
湯気を割って、岩の色の太い物が横から来る。潜った。頭の上を尻尾が通って、風が髪を持っていく。尻尾が地面を打って、平野が揺れる。
立った時に、鱗が目の前にあった。竜の腹だ。
剣を当てた。
滑った。
岩に剣を当てた時と同じだ。刃が鱗の上を走って、鱗には線も付かない。
足元から氷を上げた。竜の腹の下から、氷の柱を何本も、突き上げるように。
柱が腹に当たって、割れた。氷が割れたのだ。鱗ではない。
――ああ。
口が勝手に動く。頬が上がって、歯が見える。
氷が割れる。火で溶ける。剣が滑る。威圧が効かない。
全部、効かない。
こんなに効かない物に会ったのは、いつ以来だろう。思い出せない。
竜が頭を下げて、私を見た。目は黄色くて、縦に細い。
口が開く。喉の奥が赤くなる。
今だ。
私は跳ばなかった。前に出た。
開いた口の、赤くなっていく喉の奥へ向けて、両手を上げる。
雪華。
光る吹雪が、私の手から竜の口の中へ入った。
光と氷を一つにした物。教会で私だけが出せる物。ユーリの体を焼いて凍らせた物。
それが喉の奥の赤い所に当たって、赤を白に塗り替えていく。
火が来なかった。
喉の奥で、火が凍った。
竜の口が閉じない。閉じられない。口の中が白く凍って、牙の間から白い息が漏れる。竜の目がこちらを向いたまま、動かない。
尻尾が一度、地面を打った。
それが最後だった。
竜の前脚が折れて、頭が地面に落ちる。
私はその頭の上に登った。鱗の継ぎ目に足をかけて、縦に細い目の所まで。
目に剣を立てた。
柄まで入れた。
竜が震えて、止まった。
頭の上から平野を見た。
帯が、崩れている。
竜の足元にいた魔物が、四方へ逃げている。狼は森へ。ゴブリンは狼の後を。オークだけが、何匹か動けずに竜の体の下敷きになっていた。
砦の壁の上で、誰かが叫んだ。言葉になっていない声だ。それに続いて、何人かが同じように叫んだ。
私は竜の頭から降りた。
裾の焼けた所を一度見て、脛の皮を治した。治癒は得意ではないけれど、歩けるくらいにはなる。
後ろで長が走ってきた。
「お怪我は」
「焼けただけ」
「あれは……竜、ですか」
「そう書いてあったわ、記録に」
長が竜の体を見て、私を見て、また竜を見た。
「……砦が一つ、丸ごと。本当に、できる人なんですね」
私は答えなかった。
帯は、その日から帯ではなくなった。
群れがばらばらになって、森へ逃げる物と、平野で凍る物に分かれた。私は毎朝出て、逃げ遅れた物を凍らせて、兵が砕いて焼いた。竜の体はそのまま置いた。あれは火でも燃えない。
使いが来たのは、森の縁まであと少しという日の夕方だった。
西の門が開いて、馬が一頭入ってきた。法衣の若い男だ。大聖堂の法衣。顔は見た事がある。名前は知らない。
男は私を見つけて馬を降り、膝を折って封書を差し出した。
封には大聖堂の印。
開いた。
戻り次第、次の命があるまで王都を出るな。
それだけだ。日付と印。
「第七には」
「……第七聖には、何もお持ちしておりません」
封書を畳んで、長上着の内側にしまった。
「終えてから戻るわ」
「ですが、すぐに、と――」
男は言いかけてやめた。封書には「すぐに」とは書いていない。戻り次第、と書いてある。戻ってからの事しか書いていない。この男も、それは分かっているのだろう。
「泊まっていきなさい。戻るなら明日の朝」
男は頭を下げて、兵に連れられて行った。
封書の事は、誰にも言わなかった。長にも。言う理由がない。
王都を出るな。出なければいい。それだけの事だ。
森の縁に着いたのは、それから数日後だった。
縁の木は、根元が黒く踏まれて、そこから魔物が出てきた道が何本も森の中へ続いている。道の奥で、まだ何かが動いている。
私は縁に立って、道の口を一つずつ凍らせた。
木ごと凍らせる。幹に霜を入れて、枝まで白くして、道を塞ぐ壁にする。溶けるまでには、ひと冬かかる。溶けた頃には、溢れは終わっている。
最後の道を塞いだ時、日が落ちていた。
砦へ戻ると、長が門の内側で膝を折った。後ろの兵も、全員。
「ゼルン砦は、持ちました」
「そう」
私はそれ以上言わなかった。長も言わなかった。
朝、馬で西の門を出た。
壁の上に兵が並んで、誰も声を出さなかった。振り向かなかったから、どんな顔をしていたかは知らない。
王都までの道は、来た時と同じ道だ。
焼けた村は、焼けたままだった。狼の足跡はもうない。代わりに、道の脇に小さな石が積んであった。村の人が戻って積んだのか、ユーリが積んだのか。どちらでもいい。
王都の門が見えた。
門の騎士が頭を下げる。街の人が足を止める。
大聖堂の石段を上がって、法衣が扉を開けた。
謁見の間ではなかった。
老司教が、その手前の小さい部屋で待っていた。玉座もなく、トーカもいない。イグナスもいない。老司教と、机が一つ。
「終えたか」
「終えたわ。森の縁まで」
「竜が出たと聞いた」
「出たわ」
老司教は竜の事をそれ以上聞かなかった。
「命は読んだな」
「読んだ」
「次の命があるまで、王都を出るな。部屋は用意してある。大聖堂の中だ」
「ユーリは」
「第七は先に戻っている。お前とは別の命だ」
「会えるの」
「必要があれば呼ぶ」
必要があれば。つまり、呼ばない。
「空欄は」
「まだ命は出ておらん」
それで終わりだった。老司教は机の上の紙に目を落として、私の方を見なくなった。
法衣が部屋まで案内した。
七聖の棟の、一番奥。寝台と机と、剣を掛ける壁。窓が一つ。
私は剣を壁に掛けた。長上着を脱いで、焼けた裾を見た。直す気はない。
窓を開けた。
下は中庭で、その向こうに謁見の間のある棟が見える。第一聖の椅子がある棟。誰も座らない椅子。
扉に目をやった。
鍵はかかっていない。
かける必要が、向こうには無いのだろう。鍵が私を止められない事は、向こうが一番知っている。
止めるのは命令だ。王都を出るな。出ない。
次の命まで、私はこの部屋にいる。
竜、出しました。
ハルディスがこの話で初めて後ろへ跳んだのが、どれくらいの相手かの目安です。
そして王都からの封書。「戻り次第、王都を出るな」。ユーリには何もなし。
王都に戻った第二聖は部屋で待機。この後は、別の口を潰しに行っていたユーリの側へ移ります。
読んでくださってありがとうございます。




