第八十四話 報告(ハルディス視点)
今回からしばらく、舞台は王都の方へ移ります。
レンとミアは穴の中でお休み。代わりに語るのは、あの第二聖です。
雪原の後、教会への報告、そして次の仕事。
ちょっと怖い人の一人称ですが、しばらくお付き合いください。
山を下りきって林に入った所で、日が落ちた。
ユーリは馬の背に腹這いで乗せてある。雪原から馬のいる所まで襟を掴んで引きずったから、白い軍服の腰から下は泥と雪で汚れていた。顔は綺麗なままだ。前に垂れていたから、何にも擦れていない。
木の根元に下ろして寝かせる。息はある。雪華で焼けた所と、氷で裂けた所がいくつか。死なない所で止めたのだから、当たり前だ。
手を当てる。治癒は得意ではないけれど、弟子一人を朝までに馬へ乗せるくらいはできる。焼けた皮膚が塞がって、裂けた所が閉じていく。全部は治さない。少し残しておいた方が、この子は覚える。
火は焚いた。私は寒さが気にならないが、この子は気にする。
腰には剣が二本差してある。私のと、この子の。雪に刺さっていたのを抜いて持ってきた。鍔が階段の形をしている、教会がこの子に渡した剣。柄に残っていた雪を手袋で払って、自分の剣の隣に差した。重さは気にならなかった。
夜が深くなった頃、ユーリの指が動いた。
「……師匠」
「起きたのね」
「ここは」
「山の下。林の中よ。雪原はもう見えないわ」
ユーリが体を起こそうとして、途中で止まる。まだ痛むのだろう。私は手を貸さなかった。自分で起きられる所までは治してある。
「レンは……」
「放したわ」
ユーリが私を見た。金色の目が火を映している。
「殺していない。連れても来ていない。北へ行ったわ、あの弓の子と二人で」
「命令は――」
「分かっているわ。だから殺していないでしょ?」
ユーリは何も言わなかった。言いたい事はあるのだろうけれど、この子は私に言い返した事がない。弟子になった時からそうだ。
「育ててから取りに行くの。あのままじゃ、次で壊れるもの」
私は腰の剣を一本抜いて、鞘ごとユーリの膝の上に置いた。
「あなたのよ。雪に刺さっていたから拾っておいたわ」
「……ありがとうございます」
「次は落とさないで。拾うのは一度だけ」
ユーリは剣を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。柄を握る指に、ゆっくり力が入っていく。
それから小さな声で聞いた。
「第六聖は」
「斬ったわ。私のおもちゃに触ったから」
それ以上は聞かなかった。火が爆ぜて、ユーリが剣を抱えたまま目を閉じる。
私は見張りをした。一晩くらい眠らなくても、どうという事はない。火の向こうの暗い林を見ながら、雪原の事を思い出していた。
黒い刀。光を浴びるほど黒くなって、浴びるほど速くなる、名前のないスキル。
あれが階段のどこまで登るのか、私は知らない。教会の記録にもない。
今折ってしまうのは、惜しい。それだけの事だ。
朝、ユーリは自分で馬に乗った。
林を抜け、村を二つ通り過ぎる。井戸の脇に白い鎧が立っていて、私を見て頭を下げた。追手に出していた騎士だ。空欄がどうなったか聞きたい顔をしていたけれど、聞かなかったから答えなかった。
平野に出る。畑と道がどこまでも続いて、ユーリは私の斜め後ろを黙って付いてくる。山を下りてから、この子はほとんど喋っていない。
トリムには寄らなかった。街の壁を右に見ながら通り過ぎる。あの子が最初にいた街。もう用はない。
王都の門が見えたのは、山を下りてからずいぶん日が経った昼だった。
門の騎士が私を見て、槍を立てたまま頭を下げる。誰も顔を上げない。威圧は使っていない。使わなくても、こうなる。
街を抜ける。道の両側で人が足を止めて、私が通り過ぎるまで動かない。白い長上着と、その後ろの白い鎧。何の列か、見れば分かるのだろう。
七段の階段を模した大聖堂の前で馬を降りた。石段を上がる。ユーリが一段後ろ。
扉の前の法衣が私とユーリを見て、それから私たちの後ろを見た。誰もいない。法衣は何も聞かずに扉を開けた。
謁見の間は、出て行った時と同じ匂いがした。香と、冷えた石の匂い。
玉座にトーカ。白い祭服に細い金の冠、目元は白絹で隠れている。杖の先に黒い石。
玉座の脇に、誰も座らない椅子が一つ。第一聖の椅子。
玉座の左に、腰の曲がった老司教。
段の下にイグナス。穏やかな顔で手を組んでいる。治癒の聖人。七聖で一番弱いと言われている人。
私は段の手前で膝を折った。そう決まっている。ユーリも後ろで膝を折る。
「第二聖。空欄は」
老司教の声は乾いていた。
「連れて来なかった」
間があった。長くはない。老司教は、私が何を言っても顔を変えない人だ。
「命は、生きたまま連れて来い、であったはずだが」
「生きている。殺していない。北へ行った。山の向こうよ」
「連れて来い、と命じた」
「いつまでに、とは言われていない」
段の下でイグナスが、組んでいた指を一度ほどいて、また組んだ。老司教は何も言わない。
「あれはまだ一度で壊れる。あの雪原で壊してしまえば、持ち帰るのは体だけ。育ってから取りに行く方が、神のお役に立つわ」
老司教が私の後ろを見た。ユーリは膝を折ったまま顔を上げない。
「第六聖は」
「私が斬った。私のおもちゃに触ったから」
「……ヴァルドは、死んだのか」
「死んだわ。雪の中に置いてきた」
老司教は咎めなかった。咎める声も、息も出なかった。ただ私を見て、それから天井を見て、乾いた声でこう言った。
「第六の席が、空いた」
それだけだ。
玉座のトーカの口元が動いた。声は私の所まで来なかった。老司教がそちらを一度見て、私に戻す。
「猊下は、お待ちになると仰せだ」
私は頭を下げた。待つのは私ではない。誰が何を待つのかは、私には関係がない。
「第二聖」
イグナスの声だった。柔らかくて、少しだけ低い。
「長い道中、お疲れでしたでしょう。お弟子の方は、私の隊に診させましょうか。雪の傷は、後に残りますから」
「要らない。私が治した」
「そうですか。それは、よかった」
イグナスが微笑む。この人はいつも微笑んでいる。訓練場でも、儀式の間も。
「もう一つある」
老司教が言った。
「東から報せが来ている。魔物領域が溢れた。ゼルン砦が、持たん」
東の端。森と沼が切れ目なく続く土地で、昔から魔物が湧く。それを止めるために砦が並んでいる。溢れるのは何年かに一度。砦が持たないというのは、そう何度もない。
「第二聖。行け。押し戻して、領域の縁まで追い返せ。砦の兵は使え。使えなければ、使わなくていい」
「空欄は」
「追って命じる。山の向こうには、聖騎士は入れん。お前も知っていよう」
知っている。帝国は教会を受け付けない。塔も建てさせない。聖騎士が山を越えれば、それは戦になる。
だから空欄は北へ行った。逃げ場をちゃんと分かっている。
「第七」
老司教が私の後ろへ声を向けた。
「お前は砦ではない。溢れた魔物は街道にも流れている。村がいくつか潰された。それを潰せ。一人でだ」
「……はい」
ユーリの声は小さかった。
私と弟子を分ける。そういう事だ。理由は言われなかったし、私も聞かなかった。聞いても答える人たちではない。
分けたいなら分ければいい。砦に弟子がいてもいなくても、私のやる事は変わらない。
「下がれ」
謁見の間を出ると、廊下の窓から午後の光が入っていた。
ユーリが後ろで足を止める。私も止まる。
「師匠」
「なに」
「あの時……雪原で、なぜ」
そこで止まった。言い終えない。この子はいつもそうだ。聞きたい事の半分で止まる。
私は振り向かなかった。
「言い終えないなら、答えないわ」
「……いえ。何でもありません」
「砦には来ないでね。街道があなたの仕事よ」
「はい。師匠も、お気をつけて」
気をつける事など何もない。けれど私はそれを言わなかった。この子が言いたくて言った言葉に、いちいち返す必要はない。
廊下の先で、ユーリは右へ曲がった。私は左。
足音が二つに分かれて、片方が聞こえなくなるまで、私は振り向かなかった。
翌朝、王都の東の門を出た。
馬は一頭。供は付けなかった。付けると言われたけれど断った。歩きの兵は私より遅い。
東の街道は、王都を離れるほど畑が減って、林と草地が増えていく。
何日か走った所で、最初の焼けた村を通った。家の屋根が落ちて、井戸の縁が黒くなっている。人はいない。逃げたのか、食われたのか。道の脇に狼の足跡が重なって、その上をもっと大きい足跡が踏んでいた。
ここはユーリの仕事だ。私は馬を止めなかった。
その先の草地で、狼が道に出てきた。灰色の毛で、口の周りが赤い。
私は馬を降りなかった。手綱を持ったまま、左手を下げる。
地面の草が白くなった。霜が走って、狼の足が草ごと凍りつく。跳ぶ前に、全部止まった。
馬を進める。凍った狼の横を通り抜ける時に、一番近い一匹の首を剣で払った。氷ごと割れて、音も立てない。残りは放っておいた。凍ったまま、いずれ死ぬ。
荷を背負った人の列と、すれ違った。西へ逃げる村の人たちだ。先頭の男が私を見て足を止め、列が後ろまで止まって、誰も道を譲る動きをしない。私が草地へ馬を寄せると、列はやっと動き出した。
後ろから「第二聖だ」と言う声が聞こえた。その後は誰も喋らなかった。
砦の煙が見えたのは、その翌日の昼だった。
ゼルン砦は低い丘の上に立っている。灰色の石の壁で、東に向いた門と、西に向いた門。西が王都側だ。
丘の東には平野が広がって、その向こうに黒い線のように森が見える。魔物領域の縁。
平野は、黒い点でいっぱいだった。
西の門は閉じていた。壁の上の兵がこちらを見て、何か叫ぶ。門が少しだけ開いて、私は馬のまま中へ入った。
中庭に兵が集まってくる。血の匂いと、焼いた肉の匂い。怪我をした兵が壁際に並べて寝かされていて、そのうち何人かは動いていない。
鎧の一番立派な男が走ってきて、私の前で止まった。顔に古い傷があって、目の下が黒い。砦の長だろう。
「第二聖……ハルディス様、ですか」
「そうよ」
「教会から来ると報せはありましたが……聖騎士団は」
「私だけ」
「お一人で」
「ええ」
長の後ろで、兵の誰かが小さく言った。
「砦を一つ、丸ごと……」
別の誰かが肘で突いて黙らせる。私は聞こえなかった事にした。あの噂は、まだ生きているらしい。
「様子を」
「は、はい。溢れてからもう何日も経ちます。領域の縁の森から、まず狼が出て、次にゴブリンとオークが。昼のうちに門の前を払っても、夜の間にまた集まります。矢がもう、尽きかけています」
「本隊は」
「平野の奥、森の縁です。あの黒い帯が全部そうです。数は……数えられていません。見た事のない大きい物も混じっています」
「東の門の前は」
「狼とゴブリンが門を叩いています。今はまだ持ちます。夜は……分かりません」
私は馬を降りた。手綱を近くの兵に渡す。
「日が沈む前に、門の前だけ片付けるわ。本隊は明日から」
「お一人で、ですか」
「東の門を開けなさい。私が出たら閉めて。開けるのは私が戻った時だけ」
「ですが――」
「二度は言わないわ」
長が口を閉じた。
東の門までの通路は、矢で埋まっていた。折れた矢と、使えない矢。壁の上では兵が、落ちた矢を拾い直している。
門の内側に立つ。向こう側から、木を叩く音と獣の声が聞こえる。
私は剣を抜いた。飾りのない剣。鞘は腰に残す。
門の上の兵が閂に手をかけて、私を見た。頷く。
閂が抜けて、門が内側へ開く。
開いた隙間から、狼が飛び込んできた。
一匹目の首を払う。二匹目は跳んだまま空中で止まった。足から霜が上がって、落ちてくる前に凍っている。三匹目は私の横を抜けて中へ入ろうとした。
入れない。門の内側の床が凍って、足を取られた所で首を落とした。
門の外へ出る。
後ろで門が閉まる音がした。いい兵だ。言った通りにする。
門の前は、魔物でいっぱいだった。
狼。ゴブリン。その奥にオークが何匹か、丸太を抱えて門を叩く順番を待っている。壁の上から落ちてくる矢を、盾で受けたり受けなかったりしている。
私が出た事に最初に気づいたのは、一番近い狼だった。
――ここだ。
口が勝手に動くのが分かる。頬が上がって、歯が見える。
狼が飛んで来る。
私は動かなかった。威圧を出す。王都の門で空欄の膝を折らせたのと、同じ物。
門の前の魔物が、全部、一度に止まった。狼は跳んだ形のまま地面に落ちて、ゴブリンは棍棒を振り上げたまま、オークは丸太を抱えたまま。
魔物は人より素直だ。怖い物の前では、ちゃんと止まる。
そこへ氷を入れる。
地面に剣の切っ先を当てた。
霜が走る。音は小さい。氷が地面の上を広がって、止まっている魔物の足を掴んで、膝まで、腰まで登っていく。遠い所の魔物は腰で止まった。近い所は、胸まで。
オークの丸太が落ちた。凍った腕では持てない。
それから私は、門の前を歩いた。
凍った狼の横を通って、首を払う。氷ごと割れる。ゴブリンは背が低いから、頭を払う。オークは胸まで凍っていたから、首の付け根を突いた。剣は氷を通ってその奥のまだ温かい所まで入って、抜く時に少しだけ手応えが残る。
一匹ずつだ。急ぐ理由がない。威圧は切らさない。
壁の上の兵は矢を撃たなかった。撃てなかったのかもしれない。見ているだけだ。
奥のオークが一匹、腰の氷を自分で割って、丸太を捨てて向かってきた。威圧の中で動けるのは大したものだ。
私はそれを待った。振り下ろされる拳の横へ半歩出て、脇の下から首まで剣を通す。倒れる前に、足元の氷が倒れる場所を先に作ってやった。
門の前が静かになった頃には、日が平野の向こうの森に触れていた。
私は壁の上を見上げて、剣を鞘に戻した。
閂の音がして、門が開く。長が門の内側に立っていた。口を開けたまま、言葉は出ない。
「本隊は明日から。今日は門の前だけ」
長が頷く。何度も頷いた。
私は壁の階段を上がった。兵が道を空ける。誰も私の顔を見ない。
壁の上から平野を見る。
門の前の氷は夕日を受けて赤かった。その先の平野は暮れて、灰色になっていく。
そして一番奥。森の縁に、黒い帯。
夕日の中で帯の一部が動いている。こちらへ来ているのか、まだ分からない。
風が東から来た。森の匂いと、獣の匂いが混じっている。
明日からは、あの帯だ。
ハルディス視点、いかがでしたか。
命令は字の通り。殺すなと言われたら殺さない。いつまでにと言われていないなら急がない。そういう人です。
砦に着いて、門の前だけ片付けて、本隊はこれから。
東の砦の話はもう少し続きます。レンたちの穴の続きは、その後で。
いつも読んでくださってありがとうございます。




