第七十一話 足跡
何も起きない日にする、という昨夜の話は、朝のうちに怪しくなった。
岩陰を出てしばらく下りた所で道が二つに分かれていて、左は尾根に沿って緩く下り、右は深い谷の底へ真っ直ぐ落ちている。その分かれ目に立て札が一本立っていた。
王国の山では一度も見なかった物だ。
太い杭に厚い板が打ち付けてあり、彫った字に黒い塗料が流し込んである。
「読める?」
「読める。王国と同じ字だ」
俺は雪を払って板に顔を近づけた。
この先の谷に入るな。
帝国ダンジョン管理局
「理由は書いてないのね」
「書いてない。役所の名前があるだけだ」
ダンジョン、と彫ってある所で俺の目は一度止まった。
前の世界で散々聞いた言葉が、こんな山の中の板に当たり前の顔で並んでいる。
「管理局って帝国の役所よね。その前の言葉は何?」
「たぶん、王国で遺構と呼んでいる物の事だ。こっちではそう呼ぶんだろう」
「ふうん。穴の呼び方まで違うのね」
ミアは札から目を離して足元を見て、そこで動きを止めた。
「レン、足元を見て」
札の根元から谷へ向かって、雪の上に跡が続いていた。
一つが俺の靴を二つ並べたより大きい。深さは膝まであり、縁の雪が押し固められて氷になっている。大きな獣の足だと思って覗き込んだ跡には、前に五本の指が人の手のように長く開いて付いていた。
「札の理由はこれね。獣じゃないわ」
「重さは獣だ。でも指が違う」
跡は新しくなかった。底にうっすら粉雪が積もっていて、少なくとも昨夜の風より前に付いた物だと分かる。それでも谷へ下りていく一列があるだけで、戻ってきた跡はどこにもなかった。
ミアは谷の方へ顔を向けて、長いこと動かなかった。
あの目で見ているのだと分かったから、俺は黙って待った。
「……何も見えない。木が多すぎるの。風の筋もあそこだけ淀んでて、奥まで通ってない」
「いるかどうかも分からないのか」
「分からない。分からないのが一番嫌だわ」
俺は柄に手を置いて、谷の暗い所を見た。
昨日の俺は全力の一太刀を空に振って倒れたばかりで、あの跡の持ち主がどれほどの物なのかを測る物差しすら持っていない。国の役所がわざわざ札を立てて道を塞いでいるという事が、そのまま答えだった。
「尾根の道を行こう。遠回りでも構わない」
「賛成。今の私たちが入る所じゃないわ」
ミアは馬の鼻面を左へ向け、歩き出す前にもう一度だけ札を振り返った。
「役所が札を立てて止めるくらいだもの。帝国でも手に負えてないのよ、あれ」
「だろうな。関わらずに済むならそれが一番いい」
尾根の道は細く、片側は谷へ落ちる崖になっていた。
馬が足を滑らせないようにミアが前で手綱を短く持ち、俺は後ろから尻を押して、岩の出た所は一歩ずつ確かめながら下りる。
谷が見える場所に出るたびにミアは足を止めて下を覗いた。
木の頭が揺れる事も鳥が飛び立つ事もなく、白い谷はただ静かに口を開けているだけだった。
昼を過ぎると雪が浅くなり、土と枯れ草が見え始めた。
針のような葉の木に混じって幹の白い木が増えてくる。王国側の山では見なかった木で、ミアも名前を知らないと言った。
谷はいつの間にか尾根の陰に隠れて見えなくなっていた。
日が傾く頃には道の傾きもなくなり、水の音が近づいてきて、木の間から川が見えた。
山を下りきったのだった。
その夜は川原で火を焚いた。
山を下りたせいか風に雪の匂いがなく、火の傍にいると外套の前を開けていられるくらいだった。
「ユーリの事、考えてたでしょ」
枝を火にくべながらミアが言った。
「どうして分かる」
「山を下りてから口数が減ったもの。あんたがそうなるのは、誰かの事を考えてる時よ」
俺は火の中で枝が割れるのを見ていた。
「あいつは師匠に剣を向けた。俺を殺させないためにだ。連れて帰られて、ただで済むとは思えない」
「見てたわ。あの人の前に出て、ダメですって言ったのよね」
ミアは首から下げたプレートを指で裏返した。
裏に畳んで挟んである紙の端が、火の明かりで白く見える。
「父さんの記録を写してくれたのもあの人よ。教会の人なのに、教会が隠してる物を私に渡したの」
「北へ行けと教えたのもあいつだ」
「じゃあ、あの人のおかげでここにいるのね。私たち」
「そうなる」
「次に会ったら、ちゃんとお礼を言うわ。……会えたら、だけど」
「会えるさ。あいつは七聖だ。簡単には潰れない」
ミアは少しだけ笑って、プレートを服の内側に戻した。
次の日から川に沿って下った。
岸には轍の付いた道が通っていて、人が使っている道だと一目で分かる。半日歩くと畑が現れ、畑の向こうに屋根が見え、すれ違った荷車の男はこちらの外套と弓をちらりと見ただけで、何も言わずに通り過ぎていった。
「止められないわね」
「ああ。振り向きもしなかった」
「王国だったら、今ごろ塔へ走られてるわよ」
ミアは遠ざかる荷車の背を目で追い、それから肩に入っていた力を少しだけ抜いた。
「ここには通達が届いてないんだわ。本当に」
川沿いを歩いて二日目の昼、道が丘を一つ越えた先で、ミアが俺の袖を引いた。
見下ろした先に街があった。
川が大きく曲がる内側に灰色の石の壁が巡っていて、壁の中から数えきれない煙が真っ直ぐ上がっている。トリムを四つ並べても足りない広さで、門の前には荷車と人の列が道の上に長く伸びていた。
「峠から見えた煙、あれね」
「ああ。思ってたより大きいな」
門の上で旗が風に鳴っている。
階段の紋章ではなかった。それだけ確かめて、俺は息を一つ吐いた。
王都を出てから、ずっと後ろを見ながら歩いてきた。
丘の下に続いているのは、初めて前だけを見て歩ける道だった。
「レン」
「何だ」
「着いたら最初に、屋根のある所でご飯を食べましょ。温かいやつ」
「いいな。その次は寝床だ」
「その次は仕事ね。矢も買い足したいし」
「札に書いてあった管理局という所へ行ってみよう。穴を管理している役所なら、潜る者の仕事もそこにあるはずだ」
ミアが笑って手綱を引き、馬が蹄を鳴らして坂を下り始める。
俺は外套の襟を直して、その後に続いた。




