第七十話 峠
ヴァルド戦、ハルディス戦と戦いが続きましたので、今回は少し緩やかな回になります。
四章も残りわずかです。二人と一緒にひと息ついてもらえたら嬉しいです。
雪原を登り始めてしばらく経っても、体のどこも痛まなかった。
焼かれた肩も脛も裂けたはずの足首も、戦う前より軽いくらいに動く。三日かけて塞いだ肋のひびまで消えていて、深く息を吸っても胸の奥に何も引っかからない。
それが落ち着かなかった。
倒れる寸前まで削られた体を、削った本人が元に戻して帰っていったのだ。仕立て直された服を着せられて歩いているようで、足を出すたびに自分の体なのかどうかを確かめたくなる。
ミアは馬の手綱を引いて俺の少し前を歩いている。
矢筒の口を指で確かめては手を離す、その仕草を雪原を出てから何度も繰り返していた。
「さっきの事なら、もう謝らなくていいからな」
先に言うと、ミアは振り向かずに肩だけすくめた。
「謝らないわよ。考えてただけ。あの人の前に立ったら指が動かなかったの。弓を引く前に、引こうと思う所で止まってた」
「俺も膝が落ちた。王都の門の前でも同じだった」
「あんたはその後で立ったじゃない」
それ以上は言わずに、ミアは手綱を握り直して斜面の上を見た。
登るほど雪は締まって硬くなり、靴の下で乾いた音を立てるようになった。
歩きながら俺は最後の一太刀の事を考えていた。刃はあれまでで一番黒く、足も一番動いていたのに、振った先には何もなかった。避けられたというより、初めからそこに居なかったような空振りだった。
バルガスは当たらない場所にいろと言った。あの女は、その場所にずっと立っている。
どうすれば届くのかはまだ分からないが、何が足りないのかだけは今日はっきりした。
峠に着いたのは昼を過ぎた頃だった。
斜面が急に緩んで空が広くなり、道の脇に人の背丈ほどに石を積んだ塚が現れる。隣には朽ちて傾いた杭が一本立っていて、何か彫ってあったらしい跡は風に削られて読めなかった。
「これが国境なのか」
「そうだと思う。敵同士の国だもの、ここを越える人なんて滅多にいないはずよ」
ミアは塚の前で足を止めて、来た方を振り返った。
雲の切れ間から平野が見える。
畑の区切りも街道の筋も俺には一枚の薄い色にしか見えないが、ミアの目にはもっと先まで映っているはずだった。
「トリムは見えるか」
「さすがに無理よ。……でも、あの辺りだっていうのは分かる」
左手の奥を指で一度だけ差して、ミアは手を下ろした。
「生まれてから一度も、この国の外に出た事がなかったのよ。出る時はもう少し違う気分だと思ってた」
「どんな気分だと思ってたんだ」
「分からない。少なくとも、追われて出るとは思ってなかったわ」
笑ったのか息を吐いたのか分からない声でそう言って、ミアは馬の首を軽く叩いた。
俺は塚の向こう側へ回った。
帝国側の斜面は王国側より木が多く、雪の下から黒い岩と針のような葉の木が交互に顔を出しながら下へ続いている。山の裾には森が広がり、その中を川が一本、光りながら曲がっていた。
「煙が上がってる」
隣に来たミアが目を細めた。
「川のずっと下の方。一つじゃないわ、何本もある。村じゃなくて街ね」
「歩いてどのくらいだ」
「山を下りるのに一日、そこから川沿いにもう一日か二日。馬がいるから少しは早いと思う」
北へ行けと言ったのはユーリだった。
刀を俺に取らせながら小さい声でそう言った男は、今ごろ師匠に襟を掴まれたまま山を下ろされている。あいつがどういう顔で目を覚ますのかを考えかけて、俺はやめた。
「行こう。暗くなる前に風の当たらない所まで下りたい」
ミアが頷いて手綱を引き、俺たちは杭の横を抜けた。
日が傾く頃、張り出した岩の陰に雪の積もっていない窪みを見つけた。
枯れ枝を集めて火を起こし、岩屋で獲った鳥の最後の一羽を串に刺して炙る。脂が火に落ちる音を聞いているうちに、ようやく今日が終わったという気がしてきた。
「あの女が最後に何を言ったか、まだ話してなかった」
串を返しながら言うと、ミアは火から目を上げた。
「耳元で何か言ってたのは見えたわ。声までは聞こえなかったけど」
「とっても楽しかった、だそうだ。また来るとも言った。もっと強くなって楽しませてくれ、と」
ミアはしばらく黙って火を見ていた。
「……殺しに来るんじゃないのね」
「たぶん違う。遊びに来るんだ。あいつにとっては同じ事かもしれないが」
「言われたのはそれだけ?」
「俺の窓を見られた。鑑定の下にある、あの読めない行だ。名前も数字もないのは初めて見たと言ってた。それと、光を当てると俺が速くなるらしい」
「それ、自分で分かってたの?」
「分からなかった。ただ、あいつは試して確かめてから最後の光を撃ってきた。だから嘘じゃないと思う」
俺は刀を抜いて火の前に寝かせた。
前の野営では月を映さなかった刃が、今は目の前の火も映していない。炎が揺れても鋼の上には何も動かず、そこだけ夜が一枚貼り付いているように見えた。
「前より黒いわね」
「ああ。体は全部治されたのに、これだけは戻らなかった。強い光ほど後に残るんだと思う」
「じゃあ、あの人はあんたを強くして帰った事になるじゃない」
「そうなる。本人もそのつもりだろう」
ミアは膝を抱えて刃を見下ろし、それから自分の右手を開いて閉じた。
「次に来るまでに、私もあの人の前で引けるようになっておく。殺すと言われて止まるようじゃ、一緒にいる意味がないもの」
「止まったから今生きてるんだろ」
「今日はね。次も同じとは限らないわ」
言い切ってから、ミアは矢筒を引き寄せて中を数え始めた。
鳥を食べ終えると、ミアは普通の弓と矢を十本、俺の前に置いた。
「はい。今日からまたやるわよ」
「この暗さでか」
「火があるでしょ。的はあそこの雪の塊。山を下りたら何があるか分からないんだから、休んだ分は取り戻さないと」
言われた通りに立って弦を引くと、治ったばかりの肩は拍子抜けするほど素直に動いた。
動いたのは肩だけで、矢は雪の塊のずっと右を抜けて暗がりの中へ消えていく。二本目は手前の地面に刺さり、三本目は塊の上を越えた。
十本撃って、雪の塊には傷一つ付かなかった。
「……数は撃ってるはずなんだけどな」
「知ってる。毎晩見てるもの」
ミアは溜め息をつきながら矢を拾いに行き、戻ってくると一本ずつ羽根を確かめて矢筒に戻した。
怒っているようには見えなかった。口の端が少しだけ上がっていたから、たぶん呆れているのだと思う。
窓を開いても、スキルの欄は何も増えていない。
鑑定の下のあの行も、名前も数字もないまま同じ所にあった。
火を小さくして横になると、岩の縁の向こうに星が見えた。
王国の空と何も変わらない。変わったのは、明日下りていく先を俺が何一つ知らないという事だけだった。
「レン」
火の向こうで横になったミアが言った。
「明日は山を下りるだけよ。何も起きない日にしましょ」
「そうだな。そういう日が一日くらいあってもいい」
返事の代わりに小さく笑う気配がして、それはすぐに寝息に変わった。
俺はもう一度だけ鞘の上から刀に触れ、目を閉じた。




