第六十九話「最大火力」
「あれ? 何そのスキル?」
ハルディスの目は、俺の手前の何もない所に止まったままだった。
鑑定だ。ユーリに初めて読まれた時と同じ目の動きで、俺の窓を上から順に見ていって、一番下で止まっている。
鑑定の下にある、あの行を見ているのだ。
「……知らない。俺にも読めないんだ」
嘘ではなかった。
名前も数字もない行が何なのか、持っている俺が一番分かっていない。
「名前がないのね。数字もない。初めて見たわ」
ハルディスの声が弾んだ。
怖がってもいないし、警戒もしていない。見た事のない色の石を拾った子どものような顔をしている。
「もう少しあげるわね」
頭の上の球から雹が止んで、代わりに中の光が一段明るくなった。
降ってくる白が濃くなる。
掲げた刀と外套の肩から流れ込んでくる量も増えて、刃はさらに黒くなっていった。
ハルディスはそれを見て、また一段、さらにもう一段と明るくしていく。
雪の上の俺の影は、明るくなるほど濃くなった。
足が軽かった。
体が軽くなったのではなく、動こうと思った時にはもう動いている。
俺は走った。
頭の上から光を浴びたまま雪を蹴ると、三歩のつもりが二歩でハルディスの前に着いていて、その勢いのまま胴へ横に薙ぐ。
当たらなかった。
ハルディスは半歩下がっただけで、黒い刃は白い上着の前を通り過ぎていく。
ただ、氷色の目が少しだけ大きくなっていた。
「やっぱり。光をあげると、あなた速くなるのね」
そうなのか、と思った。
雹が遅くなったのではなく、俺の方が速くなっていたのか。
確かめる方法はなかったが、今の踏み込みが自分の足ではないように軽かったのは本当だ。
返す刀で首へ振り、外されると踏み込んで胸へ突きを入れた。
どれも今までで一番速く出せたのに、刃は相手のいた場所だけを通っていく。
「さっきよりずっといいわ。ほら、もう一回」
ハルディスは下がりながら笑っていた。
あの女が声を立てて笑うのを、初めて聞いた。
四度目を振ろうとした時、頭の上の球がふっと消えた。
光が止んで、雪原に朝の色が戻ってくる。
握った刀は黒いままだったが、流れ込んでくる物は止まっていた。
ハルディスは長剣を鞘に納めた。
遊びに使った道具を片付けるような、丁寧な手つきだった。
「やっぱりあなた最高よ! 最後に私の最大火力を受けてくれないかしら? 試したくなっちゃった」
頼む言い方をしているのに、右の掌はもうこちらを向いている。
「断ったら、やめるのか」
「やめないわ」
迷いもせずに答えた。
「レン!」
上からミアの声がした。
弓を引いたまま、撃つ事も下りる事もできずにいる。
「そこにいろ! 下りてくるな!」
叫び返して、俺は刀を体の前に立てた。
逃げても無駄なのは、あの小さな球に追い回された時に分かっている。
HP 57/91
全部治してもらった体が、氷だけでここまで削られていた。
ハルディスの掌に光が集まり始めた。
並びもしないし、形も作らない。
掌の前の一点がただ明るくなっていって、明るくなるほど周りの物から影が消えていく。
足元の雪は、あの女を中心に丸く溶けて水になった。
空気が鳴っていた。
耳で聞くというより、歯の根に響いてくる低い音だった。
「いくわね」
俺の体より太い白い流れが、川を横倒しにしたように真っ直ぐ押し寄せてきた。
立てた刀が、その流れを二つに割る。
刃に触れた光も外套に当たった光も消えて、掌と胸から、桶で滝を受けるような勢いで流れ込んできた。
それでも足りなかった。
割れた流れは刃の左右を回り込んで、柄を握る指を焼き、頬を焼き、外套の裾から出た脛を焼いていく。
髪の焦げる匂いがした。
HP 46/91
消しているのに減っていく。
食える量より、来る量の方がずっと多い。
ここに立っていても焼かれるだけで、下がっても流れは付いてくる。
それなら前しかなかった。
俺は刀を立てたまま、一歩踏み出した。
流れは重かった。
向かい風の中を歩くように体が押し戻されて、踏み出した足が雪解けの水の中で滑る。
後ろでは、俺を外れた光に焼かれた雪が湯気になって上がっていた。
HP 34/91
指の皮が柄に貼り付いている。
顔の左半分は、もう熱いのかどうかも分からなかった。
それなのに、二歩目は一歩目より速く出た。
食えば食うほど足が軽くなる。焼かれて削られていくのと、軽くなっていくのとが、同じ体の中で一緒に起きていた。
三歩目も四歩目も、前の一歩より速かった。
HP 23/91
刀は黒というより、白い流れの中に開いた裂け目になっていた。
振り返る余裕はなかったが、俺の影が雪原の端まで伸びているのが、なぜか分かった。
歩くのをやめて走った。
HP 13/91
もう何も見えず、目の前は白一色で、その真ん中に黒い線が一本あるだけだった。
その線を前に突き出して、線の向こうにあの女がいると信じて雪を蹴る。
HP 6/91
光が切れた。
いきなり朝の雪原に戻って、目の前にハルディスがいた。
掌を下ろしかけていて、口が小さく開いている。
手を伸ばせば届く間合いだった。
俺は今までで一番黒い刃を、今までで一番速く、肩口から斜めに振り下ろした。
手応えはなかった。
ハルディスは半歩横に立っていた。
上着の裾も、銀白の髪の先も、揺れてさえいない。
膝から力が抜けた。
刀を握ったまま前に倒れて、顔が雪に埋まる。
HP 2/91
止めたのだ、と分かった。
あの目は最初から最後まで俺の数字を読んでいて、死ぬ手前の所でちょうど光を切った。
どこまでなら死なないかを、測りながら撃っていたのだ。
雪を踏む音が近づいてきて、すぐ横で止まった。
背中に掌が置かれる。
さっきと同じ温かい物が流れ込んできて、焼けた指が、顔が、脛が、順番に元へ戻っていく。
HP 91/91
二度目の全快だった。
壊して、治して、また壊して、また治す。俺はあの女にとって、本当にそういう物なのだ。
耳のすぐ近くで、小さな声がした。
「とっても楽しかったわ。また来るわ。もっと強くなって、私を楽しませて頂戴?」
掌が離れた。
俺は雪に手を突いて体を起こした。
どこも痛くないし、立とうと思えば立てる。
ハルディスはもう背を向けて、倒れた弟子の方へ歩いていた。
「終わり。帰るわよ、ユーリ」
返事はなかった。
ユーリは顔を雪に伏せたまま動かない。
ハルディスは雪に突き立っていたユーリの剣を、黙って引き抜いた。
刃に付いた雪を払いもせずに左手に提げ、右手で弟子の襟を掴む。
そのまま引きずって、斜面を下り始めた。
襟を掴まれたユーリの頭は前に垂れて、金の髪が顔を隠している。
力の抜けた腰から下が雪の上を引かれていって、通った後には太い跡が一本残った。
おもちゃは二度も治したのに、弟子は治さなかった。
気づくと、刀の柄に手が掛かっていた。
追おうと思えば追える体だった。
追ってどうなるのかは、もう分かっている。
あの女には一太刀も当たらないし、次も治してもらえるとは限らない。
それに、ユーリは俺を殺させないために前に立った。ここで追って殺されたら、あいつが倒れた意味がなくなる。
俺は柄から手を離した。
ハルディスは、雪の上に残ったヴァルドの体の横を、目も向けずに通り過ぎた。
白い長上着が斜面の下へ小さくなっていって、やがて見えなくなる。
蹄の音と雪を蹴る足音が、上から下りてきた。
「レン!」
ミアが馬の手綱を引いて駆け寄ってきて、俺の前で膝を突いた。
頬に手を当てて、指で確かめるように撫でる。
「生きてる?」
「生きてる。どこも痛くない。それが一番気味が悪い」
「さっきまで顔が焼けてたのよ、あんた。上から見てても分かった」
ミアは手を離して、握ったままだった弓を見下ろした。
「ごめん。一本も撃てなかった」
「撃たなくてよかった。撃ってたら、ミアが先にああなってた」
ミアは何か言い返そうとして、口を閉じた。
それから、斜面の下へ伸びた跡に目をやる。
「あの人、連れて行かれたわね」
「ああ。殺しはしないと思う。死んでないと、あの女が自分で言ってた」
言いながら、それが何の慰めにもならない事は分かっていた。
立ち上がって、刀を鞘に納めようとして手が止まった。
刃が黒い。
光はもう来ていないのに、戦う前より濃い色のまま、朝日を少しも映していなかった。
体の傷は全部消えたのに、焼かれた分だけがここに残っている。
強い光ほど、後に残るのか。
窓を開いてみても、あの行は名前も数字もないままだった。
「行こう。日があるうちに峠を越えたい」
ミアが頷いて、馬の首を上へ向ける。
俺はもう一度だけ、斜面の下へ伸びた一本の跡を見た。
次にあの女に会う時までに、この黒い刃を一度でも当てられるようになっていなければならない。
刀を鞘に納めて、雪を踏んだ。




