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第六十七話「遊び」

 来なさいと言われても、俺は立てなかった。

 足は凍った泥に噛まれたままで、体を掴んでいる重さは門の時よりずっと強く、刀を握った腕を上げる事もできない。


 ハルディスが一歩こちらへ出た。

 笑ったままの顔が近づいてくる。


 その前に、白い鎧が飛び込んできた。


 斜面の下に立っていたユーリが雪を蹴って走り、師匠を追い越して、俺とハルディスの間に滑り込むように足を止める。

 短い白のマントの背中がこちらを向いていて、腰の剣にはまだ手を掛けていなかった。


「師匠。殺そうとしないでください」


 ハルディスは足を止めて、小さく首を傾げた。

 叱られた理由が分からない子どものような仕草だった。


「何故? 私のおもちゃだから好きにしていいでしょ?」


「ダメです」


 ユーリの声は大きくなかったが、揺れてもいなかった。

 言い終えた右手が、ゆっくりと剣の柄に掛かる。


 ハルディスの目が初めて俺から離れて、弟子の顔を見た。

 しばらく黙って見ていて、それから口の端がさっきより深く上がっていく。


「うーん……じゃあ、止めたければ二人がかりでもいいわ。楽しめそうだもの」


 ユーリの肩が僅かに動いた。

 剣を抜こうとした弟子を、ハルディスは指を一本立てて止める。


「でも待ってね、ユーリ。今のままじゃ遊べないから」


 そう言ってユーリの横を通り抜けてきた。

 ユーリは止めなかった。止める理由が見つからなかったのだと思う。


 ハルディスは俺の前に屈んだ。

 薄い氷のような色の目がすぐそこにあって、まつ毛の一本ずつまで見える。


 黒い手袋の指先が、俺の足を噛んでいる氷に触れた。

 それだけで氷は砂のように崩れて、靴が泥から抜ける。


 次に掌が胸の前にかざされた。

 光りはしなかった。掌から温かい物が流れ込んできて、胸の奥から外へ広がっていく。


 ずれていた肋が元の場所に戻るのが分かった。

 焼かれた肩と二の腕が、脛と足首が、脇腹の皮が、順番に熱を失って塞がっていく。

 割れ目からずっと引きつれていた頬の火傷も、林から引きずってきた右の腿の傷も消えた。


 HP 91/91


 どこも痛くなかった。

 あの林で最初の矢を受けてから、どこも痛くない体になったのは初めてだ。


 礼を言う気にはなれなかった。

 これは助けられたのではなく、壊すために直されたのだと、治している女の楽しそうな目を見れば分かる。


「はい、これで遊べるわ」


 ハルディスが立ち上がると同時に、体を掴んでいた重さが消えた。


 上で風が鳴った。

 ミアが弓を引いている。重さが消えた瞬間に弦を張ったのだ。


「弓の子は見ていなさい」


 ハルディスは斜面の上を見もせずに言った。


「撃ったら、邪魔したとみなし殺すわ!」


「ミアさん、撃たないでください。師匠は本当にそうします」


 ユーリが師匠から目を離さずに続ける。

 俺も立ち上がりながら声を張った。


「ミア、撃つな。あの女は矢より速い。馬を連れて、もっと上まで下がっていてくれ」


「……分かった。でも弓は下ろさないから」


 震えを押さえた声が返ってきて、風の音だけが上に残った。


 俺はユーリの隣に並んだ。

 握り直した刀は鋼の色に戻っていて、朝日を白く映している。


「レン。師匠の剣は見えますか」


「さっきのは見えなかった。気づいたら鞘に戻ってた」


「あれは片付けです。遊ぶ時は見える速さで来ます。当たらないのを確かめたい人なので」


 ユーリは剣を抜いた。

 鍔が階段の形をした細身の長剣が、音もなく鞘を離れる。


「私が前に出ます。あなたは当たらない場所にいてください」


「お前はいいのか。師匠だろ」


「師匠だから言ったんです」


 それだけ答えて、ユーリは半歩前へ出た。


 ハルディスの方から歩いてきた。

 飾りのない長剣をゆっくり抜いて、切っ先を雪に向けて下げたまま、散歩でもするような足取りで近づいてくる。


 ユーリが踏み込んだ。

 蹴った雪が後ろへ飛び、次の瞬間には剣が師匠の首筋に届く所にある。


 木剣で打ち合った時と同じだった。

 ユーリの剣は速いのではなく、相手が動く場所に先に着いている。


 それなのに、着いた場所にハルディスがいなかった。


 上体を少し反らしただけだ。

 剣は銀白の髪の先にも触れずに空を切り、返して胴を薙いだ二太刀目は半歩下がって外され、続く突きは体を開いてやり過ごされる。

 白い長上着の前が風で揺れただけだった。


 三度とも、ハルディスは剣で受けていない。

 下げた切っ先は一度も上がらなかった。


 突きを外されて伸びたユーリの肩を、ハルディスの剣の腹が軽く叩いた。


 鐘を撞いたような音がした。

 撫でた程度の動きだったのに、ユーリの体は横へ飛んで雪の上を二度転がる。


 俺はその隙に横から斬り込んだ。


 ハルディスの剣が初めて上がって、俺の方へ来る。

 見えた。肩が沈んで、肘が開いて、刃がどこを通るかが振られる前に分かる。

 半歩ずれると、剣は鼻の先を通り過ぎていった。


「そう、そこに立つの。上手ね」


 褒められた。

 振り抜いて空いた脇へ、俺は刀を振る。


 当たらなかった。

 避けられたという感じがしない。俺の刀が通る場所から、最初から相手だけがいなかったように、刃は何もない所を斬っている。


 もう一度振った。

 今度は踏み込む足を変えて、逃げる先を塞ぐように斜めに斬り下ろす。

 ハルディスは逃げもせずにその場で体を回し、刃は上着の裾の外側を落ちていった。


 三度目は首へ行った。

 殺す気で振ったわけではないが、加減をする余裕もなかった。

 氷色の目が刃を見送って、頭が拳一つ分だけ傾く。


 相手の剣は見えている。

 こちらの剣は一度も触れない。


 ハルディスが左手を軽く上げた。


 宙に透明な物が並んだ。

 朝日を受けた縁だけが細く光っていて、数は十か、それより多い。

 氷の刃だった。


 音もなく飛んでくる。


 ヴァルドの矢と同じつもりで、俺は胸で受けた。


 消えなかった。

 鱗の上を滑りはしたが、殴られたような衝撃が胸に来て足が浮き、背中から雪に叩きつけられる。

 外套の袖を裂いた一本が、治ったばかりの腕に赤い線を引いていった。


 光は消えても、氷は消えない。

 この外套も刀も、氷の前ではただの布と鉄だった。


 立ち上がる前に次の列が並ぶ。

 転がって三本を外し、起きざまに一本の軌道へ刀を置くと、今度は消えずに刃の上で砕けて、破片が頬を切った。

 受けた腕が肘まで痺れている。


「氷は斬れます。置かずに斬ってください」


 ユーリが戻ってきていた。

 俺の前に飛び込んで、飛んでくる氷を一本ずつ斬り落としていく。

 細い剣が動くたびに透明な破片が散って、雪の上に落ちても溶けない。


 足元が滑った。

 見ると雪の表が鏡のように凍っていて、その中から棘が伸びてくる。

 跳んで避けた先の雪もまた凍り始めた。


 ユーリが前から、俺が横から同時に斬り込む。


 ハルディスは二本の剣の間を歩いて抜けた。

 ユーリの剣を潜り、俺の刀の外へ出て、すれ違いざまに俺の背中を剣の腹で叩いていく。


 息が全部出て、雪に両手を突いた。

 今のが刃だったら、俺は二つになっていた。


 二人がかりで、まだ一度も触れていない。


 俺もユーリも肩で息をしていた。

 ハルディスは息も乱さず、白い上着には雪の粒一つ付いていない。

 声を出さずに、ずっと笑っている。


 ユーリが下がって俺の隣に立った。

 額から落ちた汗が顎の先で凍っている。


「……使います」


 誰に言ったのか分からない小さな声だった。


 細身の長剣が、根元から淡い金に光り出す。

 光は刃を伝って切っ先まで上がり、雪の上にユーリの影と剣の影を別々に落とした。


 ハルディスの笑みが深くなった。


「やっと出したのね」


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