第六十六話「おもちゃ」
十本は走り出して三歩目で来た。
顔へ来る二本の軌道に刃を置いたまま頭を下げて突っ込み、胸と腹の分は外套に任せ、膝へ来た三本は泥水ごと跳び越える。
消えた分が掌と胸から一度に流れ込んできて、着地した足が一瞬だけ軽くなった。
光のあった場所に着いた時、そこにはもう誰もいなかった。
泥水の中に深い足跡が二つ残っていて、片方は爪先で強く蹴った形に抉れている。
背中の方で霧が灯った。
向きを変えて走る。
右の腿は踏むたびに抜けそうになり、焼かれた脛と足首は泥水が沁みて、一歩ごとに歯を噛まないと声が出そうだった。
それでも走れば灯ってから着くまでの間は縮まっていく。
二度目も空振りだった。
着いた場所には足跡と、霧に開いた筒のような穴が十本残っているだけで、今度は左が灯る。
「遅ェ遅ェッ! 見えてても足が無ェとどうにもなんねェなァッ!」
笑い声が左から右へ流れていく。
三度目は着く直前に真横から撃たれ、向き直るのが遅れて、外套の脇をすり抜けた一本が脇腹の皮を焼いていった。
肋のひびに響いて息が止まり、俺は泥水の中に膝を突いた。
その時、目の前の霧が動いた。
風はないのに、霧が横へ引っ張られるように流れて、流れた先で小さく渦を巻いている。
ヴァルドが跳んだ跡だった。
あの速さで跳ぶ体が霧を引きずっていて、渦の巻いている所があいつの降りた場所になる。
目で追うと、渦のすぐ先が白く灯った。
撃たれてから走っていたから間に合わなかったのだ。
跳んだ先が分かるなら、灯るより前に走り出せる。
十本を刃と外套で消して立ち上がり、今度は光ではなく霧の流れを見た。
撃ち終えた光が消えると同時に、霧が右へ引かれていく。
俺はその流れを追って走った。
渦の中へ飛び込むと、白い外套の背中が目の前にあった。
着地したばかりで膝が沈んでいて、掌はまだ上がっていない。
ヴァルドが振り向いた。
霧の中で初めて顔が見える。笑ったままの口が、俺を見て半分だけ閉じた。
「見えてンのかよ、テメェッ!」
右の掌がこちらを向いて光が並ぶ。
扇に開く前の十本が束のまま胸に来て、外套が全部を飲み込んだ。
今までで一番多く入ってきた。
胸の奥が詰まるほどの量が一息に流れ込み、握った刀は黒というより穴のように見える。
刃の周りの霧まで暗く沈んでいた。
ヴァルドは撃った手を引いて腰の剣を抜いた。
治った右手に左手を添えた両手の構えで、抜きざまに振り下ろしてくる。
割れ目の左手一本とは比べものにならなかった。
剣が落ちる速さも、刃が切る風の重さも別物で、あの時これを振られていたら俺は最初の一振りで終わっていた。
それでも肩は沈む。
沈んだ肩を見て左へ半歩ずれ、落ちてくる剣の内側へ潜って、空いた脇へ刀を振り抜いた。
手応えが違った。
割れ目では硬い木の皮を剥ぐようだった体に、黒い刃は濡れた土へ入るように沈んで、肋の間を通って背中の側へ抜ける。
「がッ……!」
ヴァルドの体が折れた。
折れながら返してきた横薙ぎを屈んで潜り、立ち上がる勢いで右の腿を斬り上げる。
これも深く入って、白い上着に血が一気に広がった。
ヴァルドは跳ぼうとした。
蹴った足が斬られた腿では支えきれず、十歩を消すはずの跳躍は三歩先で崩れて、泥水に片手を突く。
「クソがッ!」
突いた手と逆の掌がこちらを向いた。
距離を取るための十本だったが、この近さでは散る前に全部が刃の届く所を通る。
俺は刀を横に寝かせて十本をまとめて受けた。
一本残らず消えて、刃はさらに暗くなる。
ヴァルドの目がそれを見ていた。
笑いが顔から消えて、唇が動く。
「何だよ、それ……撃つほど黒くなってンじゃねェかッ……!」
初めて、あの男の足が後ろへ下がった。
俺は詰めた。
ヴァルドが片膝のまま剣を突き出してくるのを体を開いてやり過ごし、伸びきった腕の上から肩口へ斬り下ろす。
鎖骨を断つ感触があって、剣を握っていた両手が柄から離れた。
剣が泥水に落ちる。
ヴァルドは両膝を突いて、斬られた肩を押さえたまま俺を見上げた。
もう一太刀で終わる。
殺すつもりはなかった。
残った左の肩を斬って、二度と掌を上げられないようにするつもりで、俺は刀を振りかぶった。
その時、頬に当たっていた霧が冷たくなった。
生温かった湯気が、一息の間に肌を刺すほど冷えていく。
斜面を埋めていた白い霧が一斉に細かい粒になり、砂を撒くような音を立てて落ち始めた。
氷だった。
湯気が凍って、凍った粒が雪の上に降り積もっていく。
視界が晴れる。
朝日と青い空と辺り一面の銀世界が戻ってきて、眩しさに目が眩んだ。
足が動かなかった。
見下ろすと、泥水が靴を噛んだまま白く凍りついている。
吐いた息が白く流れ、柄を握る指が痛いほど冷たい。
刀の黒が薄れ始めていた。
ヴァルドも撃つのを忘れて、凍った地面に突いた自分の手を見ている。
「レン! 下!」
上からミアの声がした。
声が震えている。
斜面の下に人が二人いた。
ヴァルドの白い馬の横を通り過ぎて、雪の上をこちらへ歩いてくる。
前を歩く一人は鎧を着ていなかった。
足首まである白い長上着の前が開いて中の黒が見え、腰まで真っ直ぐに落ちた銀白の髪が歩くたびに揺れている。
黒い手袋の手は体の横に下がったままで、腰の長剣には触れてもいない。
一歩後ろを歩くもう一人は、傷一つない白い鎧を着ていた。
明るい金の髪と短い白のマント。
ユーリだった。
王都の門で会った二人が、あの時と同じ並び方で登ってくる。
来た。
門の時と同じ物が、斜面の下から雪を這うように上がってきて体を掴む。
膝が落ちた。
凍った泥に膝頭が当たって音を立て、胸が縮んで息が浅くなる。
振りかぶっていた刀が、自分の意思ではなく下がっていった。
上の方でミアが弓を上げようとしているのが見えた。
腕は肩の高さまで上がらず、隣で馬が前足を折って座り込む。
ヴァルドも顔を伏せていた。
斬られた肩を押さえた手は震えているのに、歯だけは剥き出しのままだった。
「……第二聖ッ」
怯えているだけの声ではなかった。
怖さと怒りが喉の奥で一つに絡まって、潰れたような声になっている。
ハルディスは声の届く所まで来て足を止めた。
薄い氷のような色の目は膝を突いた俺だけを見ていて、ヴァルドの方へは一度も動かない。
顔には何の表情もなかった。
「私のおもちゃに触れるな」
小さい声なのに、雪原の端まで届いた気がした。
ヴァルドの肩が跳ねた。
震えは止まっていない。震えたまま顔が上がり、血の気のない口が歪んで、斬られた体が威圧の中で膝を伸ばしていく。
残った左の掌が俺の顔へ向いて、光が並び始めた。
「うるせェッ! こいつは俺の獲物だッ! テメェのおもちゃじゃ――」
声はそこで切れた。
何が起きたのか、俺には見えなかった。
斜面の下に立っていたはずのハルディスがヴァルドのすぐ横にいて、抜いた覚えのない長剣を鞘に戻している。
鍔が鞘口に当たる小さな音だけが、後から聞こえた。
ヴァルドの掌の光が消える。
首の付け根から反対の脇へ赤い線が一本走り、上着が斜めに開いて、体が膝から前へ崩れた。
雪の上に倒れた体は、光の粒にはならなかった。
人だから体が残る。
白い外套の下から血が広がって、凍った雪を溶かしながら赤く染めていく。
三度戦った男だった。
林で笑い、割れ目で黙り、今朝また笑って、たった今あと一太刀の所まで追い詰めた。
その男が、言いかけた言葉の途中で終わっていた。
ハルディスは斬った後も、倒れた体に目を向けなかった。
ユーリは斜面の下から動かずに立っていて、倒れた第六聖に一度だけ目を向け、何も言わずに顔を上げる。
その金色の目が俺と合って、すぐに逸らされた。
ハルディスの口の端が上がっていく。
無表情だった顔に浮かんだのは、欲しかった物をやっと手に取った子どものような笑い方だった。
「さぁ、来なさい。私のおもちゃ」




