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第六十五話「雪原」

 笑い声は岩屋を出る頃にはもう聞こえなくなっていた。

 暗いうちに荷をまとめて俺は馬の背に押し上げてもらい、ミアが手綱を引いて雪の斜面を登り始める。

 布で巻いた肋は馬が踏み出すたびに軋んだが、三日前のように息が止まるほどではなかった。


 空が白んでくると、斜面の一番上に山の低くなった所が見えてきた。

 ミアが昨日言っていた峠で、あそこを越えれば向こうは教会のいない国だ。


 日が昇ると辺り一面の銀世界が一斉に光り出して、目を細めないと前が見えなくなった。

 岩も木もない雪の上に、馬の足跡が一本だけ後ろへ伸びている。


 ミアは少し登るたびに振り返り、鷹風の目で斜面の下を見渡しては黙って前を向いた。


「いないはずがないのよ。あの声はすぐ下まで来てた」

「割れ目で響いて近く聞こえただけじゃないのか」

「それならいいんだけど、あいつは笑ってから来る男でしょ」


 俺も鞍の上で体を捻って後ろを見たが、雪の照り返しで目が痛むだけだった。


 先に見つけたのは人ではなく影だった。

 俺たちの足跡のすぐ脇に、青い影が一本だけ細く伸びている。

 その根元で雪と同じ色の物が動いていて、外套の裾だと分かった時には背中が冷たくなった。


「ミア、足跡の右だ。影がある」


 ミアが息を呑んで弦のない弓を背中から回す。

 もう顔の向きが分かるほど近かった。


 白い馬を斜面の下に残して、白い男が雪を踏んで登ってくる。

 割れ目の時とは違って背筋が伸び、歩幅も大きい。

 上着には乾いた血の染みが茶色く残ったままだった。


 ヴァルドは声を張らなくても届く所で足を止め、右手を顔の前に上げて握ってみせた。

 ミアの矢が抜けたはずの手が、指を一本ずつ開いて、また握る。

 それから顎を上げて、あの声で笑った。


「ハッ……ハハハハハッ!」


 笑い声が雪原に響き渡る。


「三日も待っててくれたのかよッ! 親切だなァ、テメェはッ! おかげでよく寝たぜッ!」


 笑ったまま左手の指で自分の喉をなぞる。


「ここに刀置いて、それで帰りやがったなッ! 情けかけた相手に殺される気分はどうだッ!」


 ミアの弓に風の弦が張られる音がした。

 引き絞るより先にヴァルドの両手が下を向く。


 掌の前に光が二段になって扇の形に並んだ。

 狙いは俺たちではなく、間にある雪だった。


 光が突き刺さった雪面が端から順に爆ぜる。

 濡れた布を叩きつけるような音が続けざまに鳴り、噴き上がった雪は湯気になって斜面を這い上がってきた。


 顔に当たると生温く、濡れた石の匂いがする。

 馬が怯えて首を振り、ミアが手綱を短く持ち直した。


 ヴァルドは同じ事を三度繰り返した。

 終わった時には五歩先の雪も見えなくなっていて、朝日は霧の向こうのぼんやりした白い丸になっていた。


 ミアが放った一本は霧の中へ吸い込まれ、当たった音も外れた音も返ってこない。


「駄目、見えない。湯気で風の筋も滅茶苦茶になってる」


 曲がる矢は相手が見えてこそ曲げられる。

 林では左手で、割れ目では岩で、今度は湯気でミアの弓を先に潰しに来た。

 怒鳴りながらでも、この男はそういう順番を間違えない。


 俺は鞍から滑り降りて手綱をミアに渡した。

 着いた右足が雪に沈んで腿が疼いたが、立ってはいられる。


「馬を連れて少し上へ離れてくれ。固まってると流れた矢がそっちへ行く」

「離れたらあんたが見えなくなるわよ」

「見えなくても声は届く。危なくなったら呼ぶから、それまで矢は取っておいてくれ」


 ミアは一瞬だけ迷って、馬の首を引いて霧の中へ下がっていった。

 蹄の音が遠ざかると、聞こえるのは溶けた雪が流れる音と自分の息だけになる。

 俺は刀を抜いた。


 最初の矢は正面から来た。

 霧の奥が内側から白く灯り、そこから十本が霧に穴を開けて飛び出してくる。


 割れ目の矢とは別物だった。

 指ほどだった太さが手首ほどになり、通った後の霧に筒のような穴が残る。


 それでも筋は見えたので、顔へ来る二本と膝へ来る三本の軌道に刃を置き、胸と腹の五本は外套に任せた。

 十本が続けて消えて、掌と胸から一度に入ってくる。

 割れ目の時とは量が違い、掌が痺れて肘の内側まで何かが上がってきた。


「刀で消せンのは見てたぜッ! 二本や三本ならなァッ!」


 声は左から聞こえた。

 雪を蹴る音は一度しかしなかったのに、もう霧の左手へ回り込んでいる。

 あの一歩で十歩を跳ぶ足が戻っていた。


 左の霧が灯り、向き直る前に十本が横から来る。

 体を回しながら膝の前に刃を下ろして四本を消し、外套の脇で三本を受けた。


 二本は背中の後ろを抜けていき、最後の一本が外套の肩の裂け目を通ってきた。

 肩の肉が焼ける音が自分の耳に聞こえ、腕が跳ねて刀を落としかける。


 握り直す間にもう後ろが灯っていた。


「レン、後ろ!」


 上からミアの声が飛んできて、俺は振り向きながら刃を下げた。

 今度は雪面すれすれの低い矢が、溶けた水を蒸発させながら足元を薙いでくる。


 刃が間に合ったのは半分だけだった。

 右の脛と左の足首を続けて焼かれて膝が抜け、俺は雪解けの水の中に片手を突いた。


「百本ならどうだッ! なァ、百本ならどうすンだよッ!」


 右から、前から、また左から、霧が灯るたびに十本が来る。

 ヴァルドは撃っては跳び、跳んでは撃って、俺の周りを回っていた。

 笑い声が右へ流れたかと思うと次には背中から聞こえ、そのたびに矢の向きが変わる。


 俺は立ち上がって顔の前に刃を置き、膝を外套の裾で覆い、灯った方へ向き直ってはまた刃を置いた。

 いくら消しても、外套のない所を探すように矢が抜けてくる。


 耳の上を一本がかすめて髪の焦げる匂いがした。

 続けて左の二の腕を一本が貫き、その衝撃が肋のひびに響いて息が詰まる。


 HP 24/91


 三日寝て戻した分が、息を十回つく間に消えていた。

 足元の雪は溶けて泥水になり、靴の中まで冷たい。

 焼かれた腕から血が指を伝って、柄を握る手が滑り始めていた。


 ただ、刀が変わっていた。

 白い霧の中で、刃だけが黒い。


 割れ目の時よりずっと濃く、周りの霧までそこだけ薄暗い。

 影が落ちないはずの足元にも、濃い暗がりが溜まっていた。


 百本撃たれれば百本分が入ってくる。

 掌から上がってきた物はもう肩を越えて、胸の奥で外套から入った分と一つになっていた。

 痛みは消えていないのに、柄を握る手だけが妙に落ち着いている。


 それが何なのかは相変わらず分からなかった。

 分かったのは別の事だ。


 この霧の中で光っているのは、あいつの掌だけだった。

 撃つ前には必ず霧が白く灯り、灯った所にあいつが立っている。

 どれだけ跳び回っても、撃つたびに居場所を俺に教えていた。


 右の霧が白く膨らんだ。

 俺は十本が出てくるより先に、焼かれた足で泥水を蹴って、黒い刀を下げたままその光へ走り出した。


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