第六十四話「岩屋」
割れ目を抜けた先は一面の雪で、斜面は白いまま空まで続いていた。
ミアが手綱を引いて登っていく後ろで、俺は鞍の上に体を折って胸を押さえているのがやっとだった。
馬が一歩踏むたびに肋の奥で何かがずれるような痛みが走り、息を浅くしてそれをやり過ごす。
風が出てきて頬の火傷に雪の粒が当たり始めた頃、ミアが斜面の右手を指した。
大きな岩が庇のように張り出していて、その下が奥へ窪んでいる。
近づいてみると馬ごと入れるだけの広さがあり、床は乾いた土で風も吹き込んでこなかった。
「ここで何日か休む。その体で峠は越えられないわ」
「追手が来るぞ」
「来るとしても今日明日じゃない。あいつは立てないんでしょ。それより先にあんたが馬から落ちる方が早いのよ」
言い返す息も続かなかったので、俺は黙って鞍から降ろしてもらった。
ミアは俺を奥の壁に寄りかからせて外套と胸当てを外し、肋を上から順に指で押していった。
三本目で声が出ると、そこで手を止めて布を出す。
「折れてはいないと思う。ひびね。固く巻くから息を吐いて」
吐ききった所で布が胸を締め上げ、目の前が白くなるほど痛んだが、巻き終わると不思議に息が楽になった。
頬の火傷には水で濡らした布を当ててくれて、腿の傷も巻き直してくれる。
それからミアは岩屋の外へ出ていき、雪の下から這うように生えている低い木の枯れ枝を抱えて戻ってきた。
奥の壁際なら下の斜面からは見えないと言って、手のひら二つ分の火を起こす。
干し肉は布の底に四切れしか残っていなかった。
ミアはそれを数えてから弦のある方の弓を持ってまた出ていき、日が傾く頃に白い鳥を二羽提げて帰ってきた。
羽をむしって串に刺し、火にかざすと脂が落ちて小さく鳴る。
俺は焼けた肉を少しずつ噛んで飲み込み、飲み込むたびに胸に響くのを我慢した。
「斬れなかった」
食べ終わってから俺の方から言った。
「喉に刀を置いて、そこから手が動かなかった。あいつは治ったらまた来る。分かってて鞘に戻した」
ミアは鳥の骨を火にくべて、しばらく燃えるのを見ていた。
「来たら私が撃つわ。あんたが斬らなかったのを間違いだとは思ってない」
「次は眠って治して来るんだぞ」
「そうでしょうね。でも私だって林で三本とも死なない所に当てたのよ。狙ってそうしたんじゃなくて、手がそっちへ行ったの。だからあんたの手が止まったのも分かる」
そう言ってミアは弓を膝に置き、弦を指で確かめ始めた。
俺はそれ以上何も言えずに、火の向こうで雪が暗くなっていくのを見ていた。
次の日、ミアは朝のうちに割れ目まで様子を見に行って、昼過ぎに戻ってきた。
「いなくなってた。馬もいない。血の跡が下へ続いてて、途中から消えてるの」
「途中から消えるって、どういうことだ」
「そこで傷を塞いだんだと思う。七聖なら治癒くらい持っててもおかしくないでしょ。矢を抜いたまま二日も放っておいたのは、治す分まで撃つ方に回してたのね」
あの体で二日追ってきた男が、今度は傷を治して眠ってから来る。
それを思うと布の下の肋がまた痛んだ。
「割れ目の上にも馬の跡が三つあった。そっちは南へ下りてる」
「第四聖の隊だな。本当に見ただけで帰ったのか」
「帰ったみたいね。何を見て帰ったのかは気になるけど、今は考えても分からないわ」
ミアは火に枝を足して、朝の残りの鳥を温め直した。
岩屋では寝て食べるだけの日が続いた。
一日目は横になったまま動けず、二日目に自分で体を起こして座れるようになり、三日目の昼には壁に手を突かずに立てた。
岩屋の中を端から端まで歩いてみると、右の腿はまだ引きずるが、足が出すぎて壁にぶつかるようなことはもうなかった。
林で振った分の力が、歩くとか屈むとかの小さい動きにもやっと馴染んできたらしい。
ミアは毎日鳥か兎を獲ってきて、矢は使うたびに雪の中から拾って矢筒に戻していた。
親馬は雪を掘って下の草を食べ、夜は岩屋の入口で風除けになってくれる。
三日目の夕方、ミアは岩屋の外に立って斜面の上を長く見ていた。
「登りきった所で山が一度低くなってる。あそこが峠だと思う。ここから一日あれば届くわ」
「なら明日の朝に出よう。歩くのは無理でも馬の上なら持つ」
「そうね。日が出たらすぐ出ましょう。今夜は早く寝て」
火を小さくして横になると、岩の庇の向こうに星が出ていた。
下の斜面からは何の音もしなかった。
目が覚めたのは空がまだ暗いうちだった。
何で起きたのか分からないまま耳を澄ますと、ずっと下の方から細い音が上がってくる。
風ではなかった。
人の声が岩の割れ目を筒にして響き、山に跳ね返りながら雪の斜面を登ってきている。
笑い声だった。
林じゅうに響いたあの笑い方で、割れ目では一度も聞かなかった声だ。
体を起こすとミアはもう火に土をかけていて、弦のない方の弓を手に取った所だった。




