第六十三話「背中」
切っ先が土を引っ掻く音が近づいてくる中で、止まっていた胸がやっと動いて細い息が入った。
吸うたびに肋が軋み、岩に突いた腕は震えるだけで体を持ち上げてくれない。
俺は岩の山に背を預けたままヴァルドが来るのを見ているしかなかった。
三歩手前で足を止めたヴァルドは何も言わずに左手の剣を頭の上まで持ち上げていく。
それだけの動きに息を二つ使い、上げた腕は小さく揺れていて、俺が斬った脇の傷からは上着の裾を伝って血が滴っていた。
その肩が沈むのを見て俺は立つのをやめ、体を横へ倒して岩の山に沿って転がった。
頭のあった所へ落ちた剣が岩と岩の間に深く食い込んで、砕けた石の欠片が頬に当たる。
ヴァルドが柄を引いても剣は抜けず、もう一度引こうとする間に俺は膝で体を起こして目の前にあった左の膝の裏へ刀を走らせた。
刃は鋼の色のままで深くは入らなかったが、皮の下の筋に触れた手応えがあってヴァルドの左膝が折れ、片膝が土に着く。
それでも剣は岩ごと引き抜かれて、抜いた勢いのまま横へ払われてきた。
膝を突いた低い所からの横薙ぎは屈んでも潜れないので地面に胸を付けて伏せ、背中の上を刃が通り過ぎる風で外套がはためくのを感じてから岩に手を掛けて立ち上がる。
ヴァルドも剣を杖にして右足で体を押し上げ、斬られた左足を引きずってこちらへ向き直った。
両足とも満足に動かない体なのに剣先はまだ俺を向いている。
そこからが長かった。
振り下ろしを半歩ずれて外して剣が戻る前に前腕を斬り、横薙ぎを潜って腿を斬り、突きを体を開いてやり過ごして伸びきった肩口を斬る。
どれも一太刀目のようには入らず、手が弾かれて皮が裂けるだけだったが血は出た。
硬い木の皮を一枚ずつ剥いでいくようなもので、剥いでも剥いでも芯には届かない。
それでも剣は少しずつ遅くなっていった。
初めは肩が沈んでから剣が来るまでに半歩ずれる間しかなかったのが、一歩ずれる間ができ、やがて躱してから斬ってもまだ余るようになる。
筋は最初から見えていたのだから俺が速くなったわけではなく、向こうの体が自分の剣に追いつけなくなっているのだ。
二日分の血と眠りがこの男から抜けていた。
一度だけ欲が出て、大きく空振りした背中へ深く踏み込もうとした右の腿が抜けて体が前へ流れた。
そこへヴァルドが振り向きざまに肩からぶつかってくる。
さっきの肘と同じで食らえば今度こそ終わると分かったから、流れた体をそのまま地面へ落として肩の下を転がり抜け、起き上がった時には冷や汗で背中が濡れていた。
当たらない場所にいて、斬るのはその後でいい。
もう一度それだけを自分に言い聞かせて半歩ずつの間合いに戻る。
ヴァルドの息は荒く、剣を上げる腕は肩までしか上がらなくなって、振るたびに体ごと持っていかれて足が縺れるようになった。
俺が振り終わりを待って剣を握る左の手首を斬ると、指が開いて剣が土の上に落ちる。
ヴァルドはそれを拾おうと屈みかけ、屈んだ膝がそのまま崩れて両手を突いた。
穴の開いた右手では体を支えきれずに肘が折れ、横向きに倒れてから仰向けになる。
俺は左足で剣を蹴って壁際へ滑らせた。
起き上がろうとして肘を突き、浮かせた肩が落ちる。
ヴァルドはそれを二度繰り返したが、胸が大きく上下しているだけで手足はもう言うことを聞いていなかった。
喉元に切っ先を置くと、ヴァルドの目は刃を見てから俺を見た。
林で笑っていた目でも割れ目の入口でミアを見ていた目でもなく、斬れと言っている目だった。
斬れば終わる。
この男は治れば必ずまた来るし、次は眠って傷を塞いでから来ると分かっているのに手が動かない。
俺は人を殺したことがなかった。
魔物になった監察官は額の石を割ったら光になって消えたが、ここで喉を突けば残るのは血と体で、それを最初の一人にする理由が俺の中に見つからない。
追ってこられない体にするだけならもうなっている。
刀を引いて鞘に納め、背を向けて岩の山の方へ歩いた。
右足を引きずる音だけが割れ目に響く。
「テメェ……」
後ろで掠れた声がした。
「情けかけてンじゃねェぞッ! 俺は七聖だッ!」
今日初めての大声が壁に跳ね返って何度も聞こえたが、俺は振り向かなかった。
岩の山の前まで来て壁に手を突いた時、上で小石が鳴った。
見上げた割れ目の縁に白い外套が三つあって、一人が身を乗り出して下を覗いている。
知っている顔だった。
王都の東の館で俺の傷を塞いだ治癒騎士のベルトだ。
その後ろに立っている背の高い男も訓練場で一度だけ見ている。
第四聖のイグナスで、治癒の聖人と呼ばれて戦わない隊を率いていると聞いた。
降りてくる様子はなく、弓も光も向けてこない。
イグナスは俺を見て、倒れたヴァルドを見て、もう一度俺を見た。
目が合ったのかどうかは遠くて分からないまま三つの白は縁の向こうへ引っ込み、小石がもう一度鳴って静かになる。
「レン! そこにいるの!」
岩の向こうからミアの声がした。すぐ近くだ。
「いる。終わった」
「上は駄目だった。壁がどこまでも切れてないの。だから戻って石をどけてたのよ。右の下、見える?」
岩の山の右下に人が這って通れるくらいの隙間が開いていて、向こうから伸びたミアの手は指先まで土で真っ黒だった。
俺は腹這いになって刀を先に押し込み、肋の痛みに歯を噛みながら体を通す。
抜けた所でミアは俺の顔を見て、頬の火傷と胸を押さえる手を見て、何か言いかけてやめた。
「あいつはどうしたの」
「倒れてる。生きてるが当分は立てない」
「……そう」
それ以上は聞かずにミアは親馬を引いてきて俺を鞍に押し上げ、手綱を取って歩き出した。
曲がり角の先に割れ目の出口の光が見えている。
「途中から何か変だった」
馬の上から俺は言った。
「あいつの矢が刀でも消えた。消えるたびに手から何かが入ってきて刃が黒くなって、その間は深く斬れた。撃たれなくなったら抜けていって元に戻った。うまく言えないが、そういう感じだった」
窓を開いてミアに向けると、鑑定の下のあの行は名前も数字もないまま同じ所にあった。
「変わってないわね」
「変わってない。でも何かはあった」
ミアはしばらく窓を見てから前を向いた。
「上にも人がいた。第四聖と、その隊の騎士だ。降りても来なかったし何もしてこなかった」
「見てただけってこと?」
「たぶんな。何を見に来たのかは分からない」
ミアが手綱を握り直して足を速め、割れ目を抜けると風が冷たくて目の前に雪の斜面が広がっていた。
――イグナス視点――
割れ目の縁から少し下がった岩陰に馬を三頭繋いである。
私は手綱を取る前にもう一度だけ縁まで戻って底を見下ろした。
第六聖はまだ仰向けに倒れたままで、黒い外套の背中は崩れた岩の向こうへ消えている。
止めに来たのではなく、見に来たのだった。
第六聖が猊下のお言葉を待たずに王都を出たと聞いた時、彼が何で戦うかは分かっていた。
光で戦う男だから、空欄に光を当てれば何が起きるのかを、私は自分の手を使わずに見ることができた。
矢は外套で消え、やがて刃でも消えた。
消えるたびに刃は黒くなり、光が尽きると元の色に戻っていく。そして黒いうちの一太刀だけが七聖の体を深く斬った。
撃てば撃つほど、あれは濃くなる。
「……面白い」
声に出すつもりはなかったが、隣でベルトが顔を上げたので聞こえたらしい。
「第六聖の手当てはよろしいのですか」
「要らない。彼は自分で治せる。それに私がここにいた事を彼は知らない方がいい」
鞍に上がって馬の首を南へ向ける。
「戻る。猊下に伝えることがある」
二人は顔を見合わせたが、何も聞かずに後に続いた。




