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第六十二話「左手」

 三つ並ぶたびに刃を置いた。

 膝へ来る二本を刀で受けて胸へ来る一本は外套に任せ、消えた隙に右足を引きずって一歩出る。次の三つが並ぶまでの息二つの間にもう一歩進む。躱すのをやめれば腿は痛むだけで済み、痛むだけなら歩ける。三十歩が二十八歩になり二十五歩になった。

 消えるたびに入ってくる。刃で消せば掌から、外套で消せば胸から、あの冷たくも熱くもない物が体の中へ上がってきてどこかへ収まっていく。溜まっているのか流れて消えているのかは分からない。分かるのは刀の方で、日が高くなって割れ目の底まで朝日が差してきたのに刃だけがそれを映さず、鋼の形をした影を握っているように見えた。

 足元を見ると俺の影も濃かった。壁が落とす影よりも黒く縁がはっきりしている。朝日は正面から差しているのに影の向きまで少しおかしい気がして、確かめる前に次の三つが並んだ。

 ヴァルドは壁に背を預けたまま撃ち続けている。左手を上げるたびに肩が震え、光が並ぶまでの間がだんだん長くなっていた。息二つだったのが三つになる。その分だけ俺は余計に一歩進めた。二十歩。向こうの顔がはっきり見える距離で、額に浮いた汗が顎から落ちるのまで分かる。

 狙いが変わった。

 三本を膝と胸と顔に散らしてくる。刀は一つしかないから膝を刃で消して胸を外套に任せると顔が残り、首を倒して躱しきれなかった一本が頬の皮を焼いていった。肉の焦げる匂いが自分の顔からして熱さに目が潤んだが足は止めない。次は顔へ来る筋に先に刃を置いて膝の一本を跨ぎ、着いた右足が抜けかけたのを壁に手を突いて支える。その次は三本とも右の腿へ来て、動かない足を狙われたと分かった時にはもう刀を下げていた。三本が続けて刃に吸われて掌が痺れるほど入ってくる。

 十五歩を過ぎて十二歩になり、十歩まで来た。

 ヴァルドの掌に光が並ばなかった。

 点きかけた一つが指の間で揺れて消え、もう一度点きかけてまた消える。ヴァルドは自分の左手を見下ろした。開いて握ってもう一度開いても何も出ない。

「……クソが」

 笑いも怒鳴りもしない低い声でそれだけ言い、左手を腰へ下ろして剣を抜いた。穴の開いた右手は垂れたままで柄に添えようともしない。


 ヴァルドが壁から背を離した。

 自分から来る。右足を引きずっているのは俺と同じで、踏み込みは浅く歩幅も小さい。それなのに振り下ろされた剣が空を切る音は林で聞いたどの矢よりも重かった。俺が半歩引いた後の地面に切っ先が落ちて、踏み固めた土が鍬を入れたように割れる。

 筋は見えていた。

 ユーリの剣は動く前にもうそこにあった。この男の剣は動く前に行き先が分かる。肩が沈めば上から来るし肘が開けば横から来るので、来る場所から先に体をどかしておけばいい。問題はどかす足が半歩ずつしか出ないことと、どく先が壁と壁の間の荷車一台分しかないことだった。

 横薙ぎを屈んで潜ると頭の上で刃が壁を削り、石の欠片が首筋に降ってくる。返す剣が下から来るのを右へ半歩ずれて外し、続く突きは体を開いてやり過ごす。その突きを一度だけ鍔元で逸らそうとして、触れた瞬間に肘から先が痺れて刀を落としかけた。流すな、流せる相手じゃねえと言われたのを腕の方が思い出す。利き手でもない左手一本の剣がこれだ。

 受けられないし流せない。当たらない場所に半歩ずつ居続けるしかなかった。

 ヴァルドは休まない。振り下ろして外れた剣をそのまま横へ払い、払った勢いで肩からぶつかってくる。俺は壁に背を擦って肩を外し、外した先へもう剣が来ているのを膝を折って潜った。髪の先が切れて落ちる。立ち上がりかけた所へ今度は下から斬り上げが来て、反らした胸の前を切っ先がかすめた。

 かすめただけだった。

 刃は鱗の上を滑って肉には届いていない。それなのに体が半分回って肩から壁に叩きつけられ、目の前が一瞬白くなった。滑った剣に押されただけでこれだけ飛ぶ。胸当てがなければ押されるのではなく二つになっていた。

 壁を蹴って離れる。そこへ来た振り下ろしが俺のいた壁に食い込み、刃が岩に噛まれて一瞬止まった。

 今だと思って踏み込んだ右足が抜けた。

 腿が体を支えきれずに膝が折れ、刀は届かないままヴァルドの腰の前を空振りする。ヴァルドは岩ごと剣を引き抜いて、崩れた俺の頭へ柄頭を落としてきた。転がって避けた耳の横で土が弾ける。

 息が上がっていた。向こうも同じで、剣を構え直す肩が大きく上下し、固まっていた脇腹の血の上に新しい赤が滲み始めている。二日眠らずに血を流し続けた体でまだこれだけ振れる。眠って傷を治して来ていたら俺は最初の一振りで終わっていた。

 十度は躱したと思う。数えるのは途中でやめた。躱すたびに下がらされて、背中が崩れた岩の山に近づいていく。

 次の横薙ぎが大きかった。

 振り抜いた左腕が戻るのが遅れて脇が開く。疲れているのは向こうも同じだ。俺は右足ではなく左足で踏んで懐へ入り、開いた脇から胸へ斬り上げた。

 影のような刃が深く入った。上着を裂いて肉を断ち骨に触れる手応えが柄まで返ってくる。林であれだけ遠かった男の体に刀が届いていた。

 ヴァルドは倒れなかった。

 声も上げず、斬られた脇を締めて剣を返してくる。俺は刀を引き抜いて後ろへ転がり、切っ先が外套の裾を地面に縫い付けたのを引きちぎって立った。

 刃が鋼の色に戻りかけていた。

 朝日が刃の上を滑っている。握った手の中からさっきまで溜まっていた物が抜けていくのが分かった。光が来なくなってから少しずつ抜けている。足元の影も壁の影と同じ濃さに戻っていた。

 次の剣を潜って今度は腿を斬る。同じ力で同じように振ったのに刃は皮と肉の表を裂いただけで止まり、硬い木を叩いたように手が弾かれた。

 撃たれなくなったら薄くなるのか。

 そう思った分だけ遅れた。刀を引くより先にヴァルドの体が前へ倒れ込んできて、畳んだ左の肘が胸の真ん中に入る。

 鱗の上からなのに息が全部出た。足が地面から離れ、背中から岩の山に叩きつけられて石の角が肩と腰に食い込む。

 HP 29/91

 剣ではなく肘だった。それで半分以上を持っていかれた。あの剣を一度でも体で受けていたら数字は残っていなかった。

 吸おうとしても胸が動かず、立とうとした腕が石の上で滑る。刀は手の中にあるが持ち上がらない。

 ヴァルドが左手の剣を地面に引きずってこちらへ歩いてくる。切っ先が土に線を引いていた。


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