第六十一話「割れ目」
空が白んですぐに割れ目へ入った。
両側の壁は見上げるほど高く底は荷車一台がやっと通る幅で、踏み固めた土の上に落ちた石が転がっている。朝の光は壁の上の方にしか届かず底はまだ青暗い。ミアが親馬の手綱を引いて先を行き俺は右足を引きずって後ろを歩く。一晩寝ても腿は体重を掛けるたびに焼けた。
割れ目は途中で緩く曲がっていて出口は見えない。馬の蹄が石を踏む音が壁に跳ね返って前からも後ろからも聞こえてくる。半分ほど来た頃にミアが振り返って俺の後ろを見た。
「来たわ」
跳ね返る音の中に別の蹄が混じっていた。下から上がってくる、昨日と同じ遅い音だ。俺は振り向いて刀の柄に手を置いた。
入口の明るみに馬が現れた。
白い男が首にもたれて乗っている。馬が止まると男は降りようとして鞍から滑り、肩から地面に落ちてしばらく動かなかった。それから岩に左手を突いて膝を立て、壁に背を擦りながら少しずつ立ち上がる。立ってからも壁から背を離さない。
ヴァルドは笑っていなかった。
上着の脇腹は血が乾いて黒く固まり腿も同じ色をしている。右手は穴が開いたまま布も巻いていない。目の下が落ちくぼんで唇が白く、二日前に林じゅうに響いた声の主とは思えなかった。肩で息をしているのがここからでも分かる。その目だけが俺を通り越してミアを見ている。
「ミア、馬を連れて先に行ってくれ。ここは狭くて馬が暴れると二人とも動けなくなる」
「あんた一人でどうするのよ。私が撃つから――」
言い終わる前にヴァルドが両手を上げた。右手は指が開ききらない。それでも掌の前に光が並び、並んだ全部が俺の頭の上を越えていった。
狙いは壁だった。
俺とミアの間の岩が高い所で砕け、音が割れ目の中で何倍にもなって壁の一枚が剥がれて落ちてくる。俺は後ろへ跳び、ミアは馬を引いて前へ走った。拳ほどの石が外套の肩を叩き、その後から人の胴より太い岩がいくつも道に積み重なっていく。土煙で前が見えなくなった。
「弓は……後だ」
掠れた声だった。聞こえたのはそれだけだ。
土煙が薄れると道は俺の背より高く積もった岩で塞がっていた。隙間から向こうの光が細く漏れているだけで人が抜けられる穴はない。
「レン!」
岩の向こうからミアの声がする。
「俺は無事だ。そっちはどうだ」
「私も馬も平気。でも越えられない、乗ると崩れる。矢も通らない。上を回る道を探すからそれまで持ちこたえて!」
足音と蹄が遠ざかっていく。曲がる矢でも岩は抜けない。ヴァルドは残った力を最初にそこへ使った。林で三本もらった男が同じ手を二度食わないために選んだやり方で、笑っていなくても頭は回っている。
俺は向き直った。入口までの三十歩はあの林と同じ距離で、今度は左右に跳ぶ幅がない。盾にする幹もなかった。
ヴァルドの左手が上がって光が並ぶ。並ぶまでに息二つ分かかり、三つしか並ばなかった。林の時より細くて飛んでくるのも遅く、体をずらせば躱せる速さに見えたのに右足が出ない。踏み切ろうとした腿が抜けて半歩しか動けず、二本は躱して一本が左の脛を焼いた。
歯を噛んで前へ出る。撃つのに間が要るならその間に詰められるはずだった。三歩進んだ所でもう次の三つが並んでいて、俺の足は三歩分しか縮められていない。走れない足では間に合わなかった。
次の三本も膝から下へ来る。壁に肩が当たってそれ以上は寄れず、一本を跨ぎ一本を躱したが最後の一本はどこへも逃げようがなかった。
考えるより先に手が動いて、抜いた刀を矢の筋に置いていた。斬れる物ではないと頭では分かっている。身体がそうしたのだ。
矢は刃に触れて消えた。
音も手応えもなく、ただ柄を握った手の中に何かが入ってきて、冷たくも熱くもないそれが掌から手首へ上がって消えていく。刃を見ると朝の光の中で鋼が昨夜より一段暗くなっていた。
ヴァルドの目が初めて岩の方から離れて俺の刀に止まった。何も言わずに壁に背を預けたまま左手にまた三つ並べ、今度は一本を胸へ撃ってくる。
外套の胸で消えた時に同じ物が来た。今度は胸の奥で、掌の時よりはっきり分かる。
一昨日もこれが来ていたのか。二十本以上が消えるたびに来ていたのに、あの時は足を動かすのに必死で何も気づかなかった。
これが何なのかは分からない。分かるのは光が消えるたびに俺の中へ何かが入ってくるということだけだ。
残りの二本は膝へ来て、俺がもう一度刃を置くと二本とも消えて手の中にまた入ってくる。刃がさらに暗くなり、底の青暗さの中で刀の形が見えにくくなっていた。
何か変だ。
変だが矢は消える。躱せない足でも刃を置くことはできる。俺は刀を下げたまま右足を引きずって一歩前へ出た。




