第3章完 第五十四話「北へ」
ミアが話し終える前にバルガスが戻ってきた。
扉を閉めて閂を落とし、椅子には座らずに立ったまま俺たちを見る。
「オルデンは夜明けまでと言った。あいつはその通りにする。今のうちに出ろ」
「聞いてたのか」
「戸の外にいた。あいつが報せる側だと言ったのは本気だ。三十年見てきたから分かる」
バルガスは机の引き出しから革袋を出して机に置いた。硬貨の音がする。それから壁の釘から干し肉の束を外して並べ、奥の戸棚から矢を一束出してミアの前に置いた。
「直属の前払いだ。依頼はまだ出してねえがこれから出す。文句は帰ってきてから聞く」
俺は袋を見た。トリムを出てから金を持ったことがない。ミアの金は馬で消えた。
「帰ってこられるかは分からん」
「分からなくても前払いは前払いだ」
バルガスは俺の返事を待たなかった。ミアが袋を腰に結び、干し肉を布に包んで荷に入れ、矢を一本ずつ矢筒に足していく。矢筒が久しぶりに満ちた。
「どこへ行く」
「北の帝国」
ミアが答えた。バルガスは頷いただけで、それが正しいとも間違っているとも言わなかった。
「山まで八日。街道は途中で村を二つ通る。二つ目の村から先は道が細くなって山に入る。山の向こうは俺は知らねえ」
「八日か」
「馬を潰すな。老いた方は七日目に足が止まる。止まったら置いて行け」
俺は裾を噛む馬を思い出したが何も言わなかった。
裏庭は暗かった。
二頭に鞍を載せる。ミアが腹帯を締めて俺が荷を縛る。老いた馬が俺の裾を噛んで放し、また噛む。
鞍の紐を結び直している手が止まった。
裏庭の隅にラナが立っていた。
外套を着て髪を結んで、手には何も持っていない。バルガスが言ってないのは分かっている。バルガスもラナを見て何も言わなかった。
ラナは何も聞かないまま近づいてきて、俺の鞍の紐を見て結び目を一度解いて結び直した。依頼板の紙の角を揃える時の手だった。それからミアの鞍も同じにする。
「行ってらっしゃい」
それだけだった。
ミアがプレートを握った。二枚が鳴る。ラナはその音を聞いて、聞いただけで、裏口の方へ戻っていった。
「あいつには言ってねえ」
バルガスが小さく言った。
「俺が言ったんじゃねえ。あいつが勝手に来た」
「分かってる」
俺はそう答えた。
壁の崩れた所からは馬を出せない。バルガスは俺たちを裏庭から北の通りへ出し、街の北の端にある荷の搬入口へ連れていった。門ではなく荷車一台が通る木の戸で、夜は閂が掛かっている。バルガスが右手で閂を上げて肩で戸を押した。
「ここは俺が閉める。門の奴は東を向いたままだ」
戸の外は畑で、畑の先は暗い。
「バルガス」
ミアが馬の上から言った。
「金、送っといて」
「ちゃんと送っとく」
「それと、父さんの」
ミアはそこで止まった。バルガスが顔を上げる。
「……斧。壁のまま置いといて」
「置いとく。誰にも触らせねえ」
ミアは頷いて馬の首を北へ向けた。俺も続く。戸の閉まる音が後ろでして、閂が落ちる音もした。
畑の縁を北へ行く。空が少しずつ灰色になっていく。
振り返ると壁の上に東の塔が立っていて、一階の窓に灯りが一つ点いていた。蝋燭が一本。オルデンの机の灯りだ。まだ消えていない。
「見てると思う?」
ミアが聞いた。
「分からん。灯りが点いてるだけだ」
「点いてるってことは起きてるってことでしょ」
「起きてても、こっちが見えるかは別だ」
ミアはそれ以上言わなかった。
日が昇る前にトリムは畑の向こうに沈んで、塔の灯りも見えなくなった。前は北の平野で、その先に山があるはずだ。まだ見えない。




