第五十三話「塔」(ミア視点)
日が落ちて一刻、裏口の閂を私が外した。
バルガスは外套を着ていなかった。片袖を肩の下で結んだまま暗い通りに出て、私が弓を背に回すのを見てから歩き出す。私はその一歩後ろを歩いた。
トリムの夜は静かだ。灰猫亭の窓に灯りがあって笑い声が二つ漏れてくる。あの中に王都の二騎がいる。通りの先の門には松明が二つ灯って、その光の中に白い鎧が一つ立ったまま動かない。私たちは門と反対の方へ曲がって塔の裏に回った。
東の塔は下から見上げると思ったより太い。裏手は壁に沿って物置が張り出していて、木の戸が一枚ある。葬式の道具を出し入れする戸だとバルガスは言っていた。
バルガスが右手を上げた。叩く前に戸が内側から開いた。
オルデンが立っていた。灯りは持っていない。灰色の法衣の襟から白い髪がはみ出していて、鍵を握った手が私を見て一度止まる。
「……バルガスの足音だ。三十年聞いてる」
小さい声だった。私たちを見て、通りの方を見て、戸を大きく開けた。
「入りなさい。上は寝ている」
物置は冷えた蝋燭の匂いがした。奥の戸を抜けると一階の広間で、壁際の机に蝋燭が一本だけある。天井の向こうで誰かが寝返りを打つ音がした。三騎。オルデンは天井を見上げずに机の前の椅子に座った。
「何をしに来た」
「聞きに来た」
私は紙を出した。プレートの裏から抜いて机の上で開く。二年前の神命依頼と、その下の一行。
オルデンは蝋燭を引き寄せて読んだ。読むのに時間はかからなかった。読んだあとで顔を上げて私を見て、その目が長く止まった。何かを確かめるような目だった。私が何を確かめられているのかは分からない。
「王都の書庫か」
「そう」
「七聖が写したな」
私は答えなかった。オルデンもそれ以上聞かなかった。
「この一行のこと。最後の祝福。あんたが王都から受け取って、それをどうしたか」
「渡した」
間を置かずに言った。
「ガルドに。神命を受ける者に司祭が授ける慈悲だ。殉教の痛みを取り除く。教会はそう教えるし、私もそう言って渡した」
「それが何になるか知っていて渡したのね」
「知っていた」
蝋燭の火が揺れた。オルデンは動かない。
「私は司祭になった時に一度だけ聞かされている。あれを飲めばどうなるか。それを知った上で三十年この塔にいた。ガルドに渡した時も知っていた」
「父さんはどうしたの」
「断らなかった。祝福を断る者はいない。懐に入れて森へ行った」
私の手が弓に触れていた。触れているのを自分で気づいたのは少し後だった。
「なぜ父さんだったの」
「王都が名を書いてきた。私は名を書いていない。理由も聞かされていない」
バルガスが動いた。動いただけで何も言わない。右手が結んだ左の袖を握って、それきりだった。
「森で何があったかは」
「見ていない。塔から出ていない。バルガスが片腕で戻ってきて、ガルドは戻らなかった。私が知っているのはそこまでだ」
嘘ではないと思った。嘘をつく顔ではなかった。この人は本当のことを言うのに三十年慣れていて、本当のことを言いながら人を森へ送れる。
弓を握った。
弦のある方の弓を背中から回して左手に持ち、矢筒から一本抜いて番えた。風は使わない。使わなくても三歩の距離で外す弓ではない。
オルデンは椅子から動かなかった。私を見ていた。逃げる顔でも命乞いの顔でもなく、待っている顔だった。
「撃つなら撃ちなさい。上の三騎は起きる。バルガスが死ぬ。お前たちも出られない。それでもいいなら」
弦に指をかけたまま息を吸った。父さんのプレートが胸で鳴った。
私は手を下ろした。理由は言わなかった。言えば何かが軽くなる気がして言わなかった。矢を矢筒に戻す手が震えていて、震えているのをオルデンに見られた。
「……夜が明けたら塔は動く」
オルデンが言った。
「四騎は明日の朝、街を回る。二騎は灰猫亭から出て門を見る。それまでに出なさい。次にお前を見たら私は報せる側だ。三十年そうしてきた。変わらない」
「見逃すんじゃなく先に言うだけ」
「そうだ」
紙を畳んでプレートの裏に戻した。二枚が鳴る。オルデンの目がその音の方へ動いてまた私の顔に戻り、戻った目がもう一度だけ長く止まった。
「……行きなさい」
それだけだった。
物置の戸を出ると空気が冷たかった。
バルガスが先に歩いて、塔の陰を抜けて通りに出る前に一度止まった。
「ガルドは……」
そこで止まった。続きを待ったが来なかった。バルガスは首を振って歩き出し、私はその背中に何も聞かなかった。聞けば言うのかもしれない。聞かなかったのは私の方だ。
門の松明が遠くに見えた。白い鎧は同じ所に立っている。
ギルドの裏口は閂が掛かっていなかった。開けると灯りが一つついたまま、レンが壁の斧の下に座っていた。刀を膝に置いたまま、私を見て立ち上がる。
「戻ったのね、って顔してる」
「戻ると言ってた」
レンはそれしか言わなかった。私は毛布の上に座って弓を置き、オルデンに何を聞いて何を言われたかを最初から話した。




