第五十一話「灰猫亭」
川を離れてから五日、街道は使わなかった。
朝は林の縁を行き昼は畑の畝の間を抜けて夕方には水のある所で止まる。毎晩十本、ミアが木に印をつけて俺が引き、指の皮が剥けて固くなるうちに肘の痛みは消えていったが当たる本数は増えなかった。窓は何も言わない。ミアの足首は四日目に布が取れ、騎士は三日目に東へ戻る二騎と五日目に西へ行く四騎を林から見送った。俺の窓は五日目の朝にHP91まで戻っている。塀の上から八日で中庭の傷は塞がり、残ったのは外套の裂けた肩だけだ。
「今日中に灰の森が見える」
六日目の朝にミアが言った。
「森が見えたらトリムはその手前。夜に入ろう」
灰の森は昼過ぎに見えてきた。
街道の先に灰色の帯が横に伸びていて近づくにつれて帯は木になり木は森になる。その手前にトリムの壁が低く見え、東の塔だけが壁の上に一本高く立って夕方の光を受けて白い。
街道を避けて森の縁を回るうちに日が落ちて壁が黒くなり、門の松明が二つ灯って、その光の中に白い鎧が一つ門番の隣で動かずに立っているのが見えた。
「一人置いてるわね」
ミアが小さく言う。
「門を見張るだけなら一人でいい。私たちが来るのを待ってる」
「他に入る道はあるのか」
「ある。子どもの頃に使ってたのが」
ミアは馬を降りて手綱を引き、壁に沿って北へ回っていく。訓練場の裏手にあたる所で石積みが崩れて人が跨げる高さになっていた。馬は無理だ。二頭を壁の外の木に繋ぐと老いた馬が俺の裾を噛んで放し、壁を跨いだ向こうで訓練場の土の匂いがした。
通りは暗く、灰猫亭の方角に灯りが二つ見えてギルドは暗い。ミアが灰猫亭の灯りを見て首を振った。
「あそこは駄目。ギルドの裏から入ろう」
ギルドの裏口は木の扉で閂が掛かっている。ミアが三度叩いて間を置いて二度叩き、返事がないのでもう一度同じに叩くと閂の動く音がした。
扉が内側に開いて灯りが漏れ、その中に巨体が立っている。白髪の短髪と顔の古傷、肩の下で結んだ左の袖。バルガスは俺たちを上から下まで見てから通りの左右を確かめた。
「……お前らだけか」
「二人だけ」
ミアが答える。
「早く入れ」
中は事務所の裏の部屋で、壁に柄の折れた斧が掛かっていた。バルガスは閂を戻して椅子に座り、立ったままの二人を見上げて口を開く。
「五日前に四騎来た。門に一人置いて三騎は塔に入った。昨日また二騎来て、そっちは灰猫亭に泊まってる。どっちもお前らの人相を言っていった」
その目が俺の外套に止まる。裂けた肩と黒い鱗。
「その格好は何だ」
「遺構で拾った」
「王都で何があった」
答える前にミアが口を開いた。
「バルガス。馬を二頭壁の外に繋いでる。明日入れてほしい。それと金を送りたい所があるの」
「王都の話より先にそれか」
「そっちが先」
バルガスは息を吐いてミアを見、それから俺を見た。
「馬は夜明け前にうちの者に回収させる。門に立ってる奴が壁の外まで見に来る前だ。金は送り先を書け。ギルドの荷に乗せる」
ミアが頷いて紙を受け取る。バルガスは机の引き出しから折った紙をもう一枚出して机の上に置いた。
「四騎が来た翌日、塔がこれを街に貼った」
紙を開く。教会の印。黒い外套の男と弓を持つ女を見た者は東の塔へ報せよ、匿った者は同罪と見做す。それだけだった。
「ラナが最初に見つけて剥がしてきた。三日後にまた貼られた。今は広場に一枚と門に一枚ある」
「ラナは」
ミアの声が少し変わった。
「騎士がギルドに来て登録記録を見せろと言った。直属の記録はマスターの許可がいると突っぱねて、それで済んだ。あいつは嘘が下手だが決まりを言うのは上手い」
バルガスは紙を畳んで引き出しに戻した。
「言っとくが、ギルドの決まりは教会には効かねえ。直属に手を出せばギルドを敵に回す、ってのは冒険者同士の話だ。塔が神命だと言って来たら紙切れだ。俺が言えるのは表に出るな、それだけだ」
「塔には」
ミアが言いかけた。バルガスが遮る。
「近づくな。門の一騎は塔の指図で立ってる。お前が塔に行けば向こうから来る」
ミアは黙った。頷きも首も振らない。バルガスはそれを見て何も言わず、椅子から立って奥の扉を顎で示した。
「王都のことは明日聞く。今夜はここで寝ろ。ラナにも言うな。毛布はそこだ。飯は食ったのか」
ミアが俺を見て俺の腹が鳴った。
「……持ってくる」
バルガスが扉の向こうに消えるとミアが毛布を二枚取って一枚を俺に投げてよこす。
「トリムに着いたらご飯って言ったでしょ」
「ああ。借りが増えるな」
「増やしとく」
俺は壁の斧を見た。柄が折れて刃が欠けている。バルガスが前に言った通りの斧で、俺が知っているのはそこまでだ。
ミアは斧を見ていない。畳んだ紙を手の中で二度折り直して、それから父のプレートの裏に挟んだ。




