第五十話「弓」
林を出ると街道が見えた。
二騎が抜けたあとの道は静かで荷車の轍が朝の光で影を作っている。ミアが馬を止めて道の先を見た。低い屋根が固まっている。二つ目の村だ。
「井戸の所に馬が二頭。鞍が白い」
俺には屋根と煙しか見えなかった。ミアの目は俺の目より遠くまで届く。
「さっきの二騎か」
「村で水を飲んでたぶん人に聞いてる。黒い外套の男と弓の女を見なかったかって」
「なら村は」
「無し。水は川で足りる」
ミアは道を渡らずに馬の首を返した。街道から離れて林の縁を回る。村の煙が右手に流れて後ろへ下がり昼前には見えなくなった。
川は林の向こうにあった。浅くて速い。馬に水を飲ませて革袋を満たしミアが足首を流れに浸けて顔をしかめた。
「冷たいと腫れが引くのよ」
「引いてるのか」
「まだ引いてない」
俺は川原の石に座って刀の手入れをした。昨日の兎の血が鍔の裏に残っていたのを布で拭く。手入れの仕方は誰にも習っていない。手が知っているだけだ。
ミアが足を拭いて布を巻き直しそれから背中の二つの弓を見た。弦のある方とない方。
「ねえ」
「何だ」
「弓やってみる?」
顔を上げるとミアは真面目な顔をしていた。
「今日はここまでにする。馬も疲れてるし村を避けたから道も遠回りになった。夕方まで時間がある」
「俺が弓をやるのか」
「引けるようになれとは言わない。引き方を知ってるのと知らないのは違う。あんたは剣の人だけどどこかで弓が要る日が来るかもしれない。私が隣にいない日が」
俺はミアの顔を見た。ミアは弓の弦を指で弾いて音を確かめている。俺を見てはいなかった。
「……やってみる」
川原の広い所に立たされた。
ミアが弦のある方の弓を俺に渡す。軽い。刀より軽い。握ると木が手のひらに馴染まなかった。
「左手で持つ。肘は伸ばしきらないで少し曲げる」
言われた通りにする。
「矢はここ。番える時に弦を見ない。的を見る」
矢を弦に掛けた。指が震えているのが自分で分かる。
「引いてみて」
引いた。弦が硬い。想像より硬い。狼を斬る腕で引いて半分しか引けなかった。
「……硬いな」
「硬いわよ。Cランクの弓だもの。筋力で引かないで背中で引く。右の肘を後ろに回す感じ」
ミアが後ろに回って俺の右肘に手を添えた。少しだけ後ろに引かれる。弦が動いた。頬まで来る。
「そこで止めて。それから狙う」
「狙ってるつもりだ」
「狙ってない。弓を見てるだけ。的を見て」
二十歩先の木にミアが短剣で印をつけていた。そこを見る。弦の音が耳の横で鳴って矢が飛んで木の左を抜けて川原に落ちた。
「外れたな」
「見てた。もう一本いこう」
二本目は木に当たった。印の下で手のひら三つ分。三本目は右へ外れた。四本目で肘が痛くなった。五本目は印の横に刺さった。
「……当たったぞ」
「当たったんじゃない。そこに行っただけ」
ミアが刺さった矢を抜きながら言う。
「狙って当てるのは私。あんたは狙わなくていい。引いて止めて放す。矢が行く所に行く。それだけ覚えて」
「それで当たるのか」
「当たらない。でも形は覚える。形を覚えてればいつか何かで引く時に体が知ってる」
何かで、の所でミアは言葉を切った。その先を言うつもりはないらしい。俺も聞かなかった。
十本ほど射て肘と指が痛くなって終わった。窓は何も言わなかった。十本では何も出ない。ミアが矢を全部拾い集めて矢筒に戻す。
「弦、痛かったでしょ」
「指が痛い」
「明日には皮が剥ける。そのうち固くなる」
「明日もやるのか」
「あんたがやるなら」
俺は右手の指を見た。弦が当たった所が赤くなっている。刀を握る指だ。剣に障るかと一瞬思って思ったことを頭から追い出した。障るなら障ると分かった時にやめればいい。
日が傾いて火を起こした。
ミアが川で魚を二匹突いてきた。短剣で。弓は使わなかった。焼いて食べる。俺は頭から食べた。肉がない時は魚の頭でいい。
ミアが弦のない方の弓を膝に置いた。俺はそれを見た。
「そっちはどうなんだ」
「あんたには引けない。風がないと弦が張れない」
「知ってる。見るだけだ」
ミアが弓を火の光にかざす。黒い木が赤く見える。弦を掛ける所に溝があって溝は擦れて浅くなっていた。あの部屋の男の相棒が引いた分だ。
「あの人は」
ミアがぽつりと言った。
「相棒の弓、返せなかったって書いてあったんでしょ」
「そう書いてあった」
「返せなかったのに置いていった。読める奴が来たら使えって刀には書いて弓は相棒の物だって書いた。使えとは書かなかった」
「……ああ」
「私が拾った。使えとは書かれてない物を」
ミアは弓を撫でてそれから背中に回した。
「風で引けたんだからいいのよね」
答えを求めている声ではなかった。俺は何も言わなかった。
火が落ちてその夜はミアが先に寝た。俺は指の赤い所を火にかざして見ながら二十歩先の木に刺さった五本目の矢のことを考えていた。狙わなかった一本が刺さった。狙った四本は外れた。
剣で言えば何だろうと考えて答えは出なかった。




