第三十九話 師弟
訓練場は大聖堂の西側にあった。
東の館から中庭を横切って廊下を一本抜けると白い石の壁に囲まれた広場に出る。土は踏み固められていて壁沿いに木の柵と見物のための段が三段。段の上に何人か座っているのが見えた。
ハルディスは真ん中に立っていた。
昨日と同じ白い長上着。鎧はない。腰の剣は抜いていない。俺たちが入ってきたのを見て顔の向きだけを変えた。
「来たのね」
小さい声だ。門のときと同じ聞こえるか聞こえないかの声。
膝は落ちなかった。今日は威圧を使っていないらしい。
「抜きなさい」
ハルディスが言った。
「……いいのか」
「ここは訓練場。抜いた者を斬るのは門の外だけ」
俺はユーリを見た。ユーリは頷いて一歩下がった。
刀を抜く。
鞘から出るとき乾いた音がした。ハルディスは剣を抜かない。腰に下げたまま両手を下ろして立っている。
抜く前に一度だけ鑑定という言葉を頭に置いてハルディスを見た。
【対象の情報を読み取れません】
一行で消えた。ユーリが言っていた妨害だ。七聖の窓はLv1の目には開かない。
「来なさい」
最初の一歩で分かった。
届かない。
剣術Lv8の目で見ている。相手の肩の動きも重心も足の向きも全部見えている。見えているのに刀がそこに着くとハルディスはもういない。
右に振る。空を切る。
戻して左。空を切る。
踏み込んで突く。突いた先に白い上着の裾だけが残って本体は半歩横にいた。
ユーリのときとは違う。ユーリは先に着いている。俺が動く場所に先に剣がある。ハルディスは違った。俺が動く場所から先にいなくなる。追いかけても追いかけても刃の届く場所に体がない。
数字は読めない。だが分かる。剣術ではない。剣術ならユーリと同じ目で見える。これは見えない。避けるというスキルを何段も上げた人間の動きだ。
十本振った。
二十本振った。
汗が目に入る。ハルディスは息一つ乱していない。剣はまだ腰にある。
「……くそ」
三十本目で俺は剣術を使うのをやめた。
バルガスの木の斧を思い出す。当たらない場所にいろ。受けるな。流すな。相手が避けるなら避けた先に行く。
半歩前に出た。
ユーリのときに一度だけ効いた動きだ。刀を振らずにハルディスの避ける先へ体だけを先に置く。
ハルディスが横に動いた。俺の体がそこにある。
止まった。
白い上着の袖と俺の左肩が指一本の隙間で止まっている。ハルディスの顔がその距離にあった。
笑っていた。
ほんの少しだ。口の端が上がって氷色の目が細くなって、それは子どもが面白い物を見つけたときの顔だった。門のときの無表情とは別の生き物に見えた。
一瞬で消えた。
俺の刀はまだ振っていない。振ろうとしたときにはハルディスはもう三歩向こうに立っていた。
「終わり」
声は元に戻っていた。
「あなたはやっぱり階段の外にいる」
それだけ言ってハルディスは背を向けた。訓練場の出口へ歩いていく。足音はやはりしない。
俺は刀を下ろして膝に手をついて息をした。
一度も届かなかった。
「今の、見ましたか」
ユーリが横に来て言った。
「……笑ってた」
「師匠が戦うときに笑うのは相手が面白いときだけです。私は笑われたことがありません」
ユーリの声に少しだけ悔しさが混じっている気がした。気のせいかもしれない。
「なんでだ。俺は一度も届いてない」
「届かせようとする者は珍しくありません。届かない場所に体だけを先に置く者は珍しい」
俺は段の上を見た。見物が二人残っている。
一人は四十過ぎの男で灰色の法衣を着て穏やかに座っていた。剣は持っていない。手を膝の上で組んで、俺ではなくハルディスが出ていった出口の方を見ている。
もう一人は三十過ぎの体の大きい男だ。白地に銀縁の軍服で胸に階段の紋章。段の上で立って俺を見て何か言いたそうに口を開いて閉じた。
「あの二人は」
「座っている方が第四聖イグナス様」
イグナス。捨て場の胸当ての隊の主だ。
鑑定を向けた。
【対象の情報を読み取れません】
同じ一行だ。戦わない聖人でも妨害は持っている。
「治癒の聖人と呼ばれています。戦いません。七聖の中でたぶん一番弱い」
穏やかな男は俺の視線に気づいて小さく会釈した。それだけだった。
「立っている方が第六聖ヴァルド様。……あまり近づかないでください」
「なんで」
「出世に飢えている人です。あなたを連れてきたのが私で、それが気に入らない」
ヴァルドが段を下りてこちらへ来かけてイグナスが何か言った。ヴァルドは足を止めて舌打ちのようなものをして出口の方へ行った。イグナスも立ち上がってゆっくり後に続く。すれ違うときイグナスは俺を見なかった。
東の館へ戻る道でユーリが珍しく自分から口を開いた。
「私は十七で七聖に就きました」
「聞いた。噂で。最年少だって」
「最年少というのは、今の七聖の中で、という意味です。十七で席に就いたのは教会の歴史で二人。師匠と、私です」
ユーリは少しだけ間を置いた。
「第二の席は一番強い者が座る席で、第三から下は年の順です。師匠は十七で第二を取った。私は十八で第七にいる」
「……なんで、それを俺に」
「だから師匠は私を見ています。見ているというのは目をかけているという意味ではなく」
ユーリは少し言葉を探した。
「監視しているに近い」
「……なんで」
「分かりません。師匠が何を考えているかは私には分かりません。十五で弟子になって、十七で席に就いて、三年そばにいて一度も」
中庭の端まで来てユーリは足を止めた。
「明後日、ミアがこちらに着きます」
「……ミアが?」
「トリムからバルガス殿の使いが来ました。馬と薬を持たせて送り出したそうです。足はまだ痛むと」
俺は何か言おうとして言葉が出なかった。
「大聖堂の中には入れません。外で会わせます。場所は私が」
「……ああ」
ユーリはそれ以上言わず東の館の扉を開けた。
俺は膝の上に刀を置いてさっきのハルディスの顔を思い出していた。子どもの顔だ。あれが砦を一つ壊した人間の顔だ。




