第三十八話 記録
朝、白い鎧が二人来た。
兜の下の顔は若くて、腰に剣はなかった。代わりに布の袋を提げている。襟の裏をわざわざ見るまでもなく、首の徽章に四の字があった。
第四聖の隊。
一人が俺の腕の布を解いて、傷に手をかざした。白い光が指から出て傷を撫でる。ユーリの光とは違う。斬るための光ではなく、縫うための光だ。痛みが引いて、噛まれた跡が赤い線になって、それも薄くなった。
鑑定という言葉を頭に置いて、その騎士を見た。
名前:ベルト Lv:34
HP:175/175 MP:90/90
三十四。戦わない隊の数字だ。ベルト。俺が名前を知らないだけで、窓は知っている。
背中の棘の傷も、脇腹も、同じ光で塞がれた。二人は一言も喋らずに袋を提げて出ていった。
HP:12 → 63。
全部は戻らなかった。それでも歩ける体になった。
ユーリは扉の横で、その二人を最後まで見ていた。何も言わなかった。二人が出ていってから、鎧の胸に指を当てて、それから離した。
書庫は大聖堂の地下にあった。
東の館から中庭を戻って、大聖堂の裏の小さな扉から石段を下りる。段は狭くて急で、壁の魔石の明かりが遺構のものより弱い。下りきると天井の低い部屋がいくつも続いていて、どこも棚で埋まっている。紙の匂いと湿った石の匂い。
入口で法衣の書記が二人、ユーリを見て頭を下げた。俺を見て何も言わなかった。
「七聖の権限で入れるのは三つ目の部屋まで。その奥は司教以上です」
ユーリが小声で言う。
「二年前の神命依頼は、二つ目の部屋にあるはずです」
二つ目の部屋は、棚に年と地名の札が下がっていた。
ユーリが棚の間を歩いて、一つの棚の前で止まる。札に「トリム」の字がある。上から順に紙束を抜いて机に広げた。
教会の記録は几帳面だった。神命依頼の一枚一枚に日付と依頼の内容と報酬と、指名の名前がある。
二年前の、春の終わり。
ユーリの指が一枚の上で止まった。
「これです」
俺は横から覗いた。
――灰の森奥、魔物討伐。報酬、金貨五枚。指名、ガルド(B)。
ガルド。ミアの父の名前だ。ギルドの壁の斧の下に小さくその名が彫られていたのを思い出した。
その下に細い字で一行。
――司祭オルデンに、最後の祝福を一つ授ける。
「……最後の祝福」
声が乾いた。
ヴェルナーが飲んだあの石だ。殉教の痛みを取り除く神の慈悲。教会が監察官にそう教えて持たせる、親指大の黒い石。
二年前、オルデンはあの石を一つ、王都から受け取った。神命依頼でミアの父を森の奥へ送り、その父に何が起きたか。ミアはもう知っている。魔物に殺されたのではなく、魔物にされたのだと。証拠がなかっただけだ。
これが証拠だ。
ユーリは紙を見たまましばらく動かなかった。それから鎧の胸当ての内側に指を当てた。
「……オルデン司祭がこれを受け取っていたのは知っていました。何のためかは知らなかった。監察官が持つのは当然の物だと思っていました」
「ユーリの部下も、飲んだんだろ」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
ユーリが紙を一枚めくって次の一枚に目を落とした。同じ棚の、少し前の日付。
――第五聖ガラン、北へ巡礼。帰還の日、未定。
「第五聖」
「はい。ガラン様。私が七聖に就く前の年に北へ行かれたきりです。巡礼は七聖の務めの一つですから、誰も不思議に思っていません」
「同じ棚にあるのか」
「……同じ棚に、あります」
「ユーリ。それ」
「はい」
「ミアが来たら、渡してくれ。俺の口からは言わない」
「……言わないのですか」
「言えない。これはミアが自分の目で読む物だ。父親の名前が書いてある紙を、俺が読み上げる筋はない」
ユーリは少しだけ黙って、頷いた。
「では、ミアさんが来るまで私が持ちます」
ユーリは棚の脇の机から紙を一枚取って、二枚の文をそのまま書き写した。日付も報酬も名前も、細い字の一行も。書記は棚の向こうで背を向けている。
原本は棚に戻した。
写しを折って、鎧の内側に入れた。石の欠片と同じ場所だ。
三つ目の部屋は、二つ目より暗かった。
棚の数は少ない。代わりに棚の一つ一つに鎖がかかっている。ユーリが腰の鍵で一つを開けて、中から革の表紙の本を出した。
「禁書、と呼ばれています。七聖が読めるのはこの一冊だけ。神代の文字を三百年前の司教が写したものです。誰も読めません」
「読めないのに、禁書なのか」
「読めないから、禁書なのです」
ユーリが本を机に置いて、俺の方へ向けた。
開く。
見たことのある字が並んでいた。遺構の門柱の字と同じ。「ここより下、階段にあらず」と刻まれていた、あの字だ。俺の頭の中で、それは日本語になる。
俺は声に出さずに読んだ。
――階段は七つに見え、七つではない。
――極に至る者、人にあらず。
――階梯の外には、風を引く者が伴う。
指が止まった。
風を引く者。
あの部屋の壁にも、その言葉はあった。弓は風を引く者の物だ。相棒の物だった。
ミアの顔が浮かんで、俺はそれを押しやった。
「読めますか」
「……少しだけ」
嘘ではない。全部読めるが、全部を言うつもりはなかった。
「何と」
「階段は七つに見えて、七つじゃない。それと、極に至る者は人ではない」
「それだけですか」
「それだけだ」
ユーリは俺の顔を見て少しだけ黙って、それから本を閉じた。信じたのか信じていないのか、分からない顔だった。ただ聞き返さなかった。
「オルデン司祭は、この本の中身を知っているのだと思います」
「なんで」
「司祭は就任のとき、司教から一度だけ教会の目的の概要を聞かされます。私は七聖ですが、それは聞かされていません。司祭の方が、ある一点では私より多くを知っている」
ユーリは鎖を戻して鍵をかけた。
「トリムに戻ったら、オルデン司祭に聞くことがあります」
それは俺への言葉というより、自分に言った言葉に聞こえた。
書庫を出て石段を上がる。
中庭に出ると日が高かった。地下にいた間に昼を過ぎていたらしい。塀の向こうで、訓練場らしい場所から木剣の音が聞こえる。
ユーリが足を止めた。
「明日、訓練場に行きます」
「訓練場」
「師匠が、あなたを見たいそうです」
俺は昨日の門を思い出した。膝が落ちて立てなかった石畳を。
「……見るだけか」
「見るだけです。たぶん」
ユーリはそれだけ言って東の館の方へ歩き出した。
俺は少し遅れてついていった。鎧の内側に写しが一枚と石が二つと胸当ての破片が入っていることを、ユーリは誰にも言っていない。俺も言わない。この大聖堂の中で俺とユーリだけが知っていることが、一つずつ増えていく。




