第三十七話 トーカ
扉が閉まる前に、ユーリが俺の耳元で言った。
「猊下に鑑定を向けないでください。向けた者は、私が斬らなければならなくなる」
声は小さかった。冗談の声ではなかった。
俺は頷いた。向ける気は最初からなかったが、言われてからは、向けないでいるのに少し力が要った。
謁見の間は、広さの割に何もなかった。
白い石の床がまっすぐ奥へ続いて、その奥に段が七つ。段の一番上に椅子が二つ並んでいる。右の椅子は空で、左の椅子に誰かが座っていた。
小さい。
それが最初に思ったことだ。二十歳の女だと聞いていた。椅子に座っている人間は十五にも見えた。白い衣が床まで垂れて、その中で体がどこにあるのか分からないほど細い。波打つ銀白の髪が椅子の背まで落ちて、頭に細い金の冠。膝の上に杖を横に置いていて、杖の頭に黒い石が埋まっている。
黒い石。
ヴェルナーが飲んだ石と同じ色だ。額に埋まっていた石と、昨夜の胸の石と、ユーリが鎧の内側にしまった欠片と、同じ。
目は見えなかった。
目元に薄い白い布が巻いてあって、その上から顔が見える。見えるのだが、俺は息をするのを一度忘れた。
美しい、という言葉は知っている。この世界に来てユーリを見て、ハルディスを見て、それぞれに整った顔だと思った。だが椅子に座っているこの女は違った。整っているのではない。人の顔というものの、たぶん一番上にあるものが、そこに座っている。布で目を隠していてもそうだ。隠していなければ、たぶん俺は立っていられなかった。
「レン」
声がした。小さい。この部屋の広さに合わない、耳元で話すような声だ。
「会いたかった」
それだけ言って、女は黙った。
俺は何も言えなかった。ユーリが隣で片膝をついたのでそれに倣った。膝をつくと段の上の椅子がさらに高く見える。HP十二の膝は、つくのは楽で、立つのが怖い。
段の脇から老いた司教が一人出てきた。灰色の法衣に金の縁取りがあって、腰が曲がっている。司教は俺たちの前まで来て、椅子の方を一度仰いでから、こちらを向いた。
「教皇猊下はお言葉が少ない。私が代わりに申し上げる」
しわがれた声だった。
「そなたは階段の外にある者だ。神は、代価なき器を求めておられる。三百年、待った」
器。
壁の字がまた頭の中に浮かぶ。
「そなたは器の候補である」
司教が段の上の右の椅子を手で示した。空いている方の椅子だ。
「七聖の第一の席は三百年空いている。神がご自身で選ぶ席だからだ。その席にそなたが座るかどうか。七日後に、儀式で決まる」
「……儀式」
「神の光を注ぐ。器であれば受け取り、器でなければ何も起こらぬ。それだけのことだ」
それだけのこと、という言い方だった。
俺は椅子の上の女を見た。布の下で顔がこちらを向いている。表情は読めない。口元だけが見えて、それは少しも動いていない。
「猊下は」
ユーリが口を開いた。
「猊下は、それをお望みですか」
司教が眉を上げた。七聖が教皇に直接問うのは、たぶん普通のことではないのだろう。
椅子の上の女が少しだけ首を傾げた。
「……望むのは、神」
小さい声だった。
「私は、伝えるだけ」
司教が咳払いをして話を戻した。
「儀式まで七日。その間、そなたは客人として大聖堂の東の館に滞在する。刀は預からぬ。猊下のご意向だ。ただし見張りはつく。館から出るときは必ず七聖の者を伴え」
「七聖の者」
「ユーリだ。そなたを連れてきたのだから、そなたを見ているのもユーリの務めだ」
ユーリは何も言わずに頭を下げた。
司教が俺の腕の布を見た。
「傷は治させる。第四聖の隊を回す。……器に傷は要らぬ」
ユーリの指が、鎧の胸に一度だけ触れた。俺にしか分からない動きだった。
司教が退がる。
俺は立ち上がろうとして、椅子の上の女がまだこちらを見ているのに気づいて止まった。
「レン」
また名前を呼ばれた。
「……はい」
「あなたは」
女の口元がほんの少し動いた。何かを言いかけてやめたように見えた。
「七日後に」
それで終わった。
東の館は大聖堂の裏手にあった。
石の廊下を抜けて中庭を横切って、塀の向こうに小さな建物がある。白い壁に木の扉で、中は寝台が一つと机が一つ。窓は小さくて鉄の格子がついていた。客人の部屋にしては格子は余計だと思った。
扉の外に灰色の法衣が二人立った。
ユーリは扉を閉める前に部屋の中を一度見回して、それから俺を見た。
「猊下を、どう見ましたか」
「……二十には見えなかった」
「私も初めて見たときはそう思いました。三年前です。あの日から、猊下は少しも変わっていません」
ユーリはそれ以上言わなかった。
「明日、書庫へ行きます。二年前の記録を探す。私の権限で入れる所までなら」
「ミアのために」
「あなたのためでもあります」
扉が閉まる。
俺は寝台に座って腰から刀を外して、膝の上に横に置いた。膝の上に横に置いた杖と、黒い石を思い出した。
七日。
窓の格子の向こうで、七つ目の塔の先が屋根のないまま暮れていくのが見えた。




