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第三話 丘の向こう

丘の上に立つと、風が変わった。

草の匂いに、土と、煙の匂いが混ざる。

下を見ると、道があった。

轍のついた、土の道。丘の裾を右に左に曲がりながら、森の縁に沿って、煙の方へ続いている。

その煙も、さっきよりずっと近い。

木の柵と、屋根が見える。

街だ。

「……あるっ」

膝から、力が抜けそうになった。

人がいる。飯がある。多分、寝る場所もある。

なんでもいいから、今日はもう、屋根の下で寝たかった。

斜面を、道まで下りた。

途中で一度、足が滑って尻餅をついた。ゴブリンがいないと分かっているだけで、こんなに気が抜ける。


道の脇に、腰を下ろした。

水袋の水を飲んだ。ぬるい。でも、口の中の吐いた味が、ようやく薄れた。

パンを、もう一つ取り出した。

残り二つのうちの一つ。さっき吐いた分を、体が求めている。

固い。噛むのに顎が疲れる。

でも、うまい。

生きている、という味がする。

(……生きてるな)

剣を握った右手を、見た。

血は、乾いて茶色くなっていた。水袋の水で洗った。落ちない。爪の間に残る。

(一匹、殺した)

思い出すと、まだ胃がひやりとする。

でも、さっきほどじゃない。

時間のせいなのか、レベルのせいなのか、分からない。

「……ステータス」

念のため、開いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【ステータス】

名前:レン

Lv:2

HP:26/47 MP:20/20

筋力:10 体力:11 敏捷:12 魔力:9

所持SP:0

ギフト:―

スキル:剣術 Lv2

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


HPが、22から26になっている。

(勝手に回復するのか)

座って、飯を食って、水を飲んだだけだ。それで、四つ戻った。

肩と背中の痛みも、確かに、少し引いている。

「便利だな……」

ゲームで見るときは、何とも思わなかった。自分の体でやられると、ちょっと感動する。

窓を閉じて、立ち上がった。

剣を抜いた。

道の真ん中で、素振りをしてみる。

ひゅ。

ひゅ。

剣術Lv2の体は、さっきの感覚を、まだ覚えている。

振り下ろすとき、腰が先に回る。

戻すとき、肘が自然に畳まれる。

「……面白い」

たぶん、まだ全然、弱い。

剣を習った人間が見たら、笑うんだろう。

でも、今朝の俺は、この剣を持ち上げるだけで、腕が引っ張られていた。

それが、今は振れる。

一ポイント。

たった一ポイントで、こうなる。

(つまり、あと十回、二十回レベルが上がったら――)

そこまで考えて、やめた。

先に、街だ。

剣を納めて、歩き出した。


道は、思ったより長かった。

街は近く見えたが、道は森の縁に沿って、大きく迂回している。

歩きながら、いろんなものを見た。

道端の、白い石。何か文字が彫ってある。

『トリム まで 半刻』

読めた。

知らない文字なのに、意味が頭に入ってくる。女神の言っていた『言語適応』だ。

(トリム。街の名前か)

半刻がどれくらいか分からないが、たぶん、遠くない。

小さな川を渡った。橋は丸太を三本並べただけで、渡るときに少し揺れた。

川の水は冷たくて、澄んでいて、水袋を満たし直した。

顔も洗った。

鏡がないから、自分の顔がどうなっているのか、分からない。

若いのは分かる。手を見れば分かる。

(どんな顔なんだろうな)

少し、気になった。

街に着いたら、どこかで確かめよう。

空を見上げた。

太陽は、まだ高い。

異世界の空は、俺の知っている空より、少しだけ青が濃い気がした。

「……悪くない」

ゴブリンに殺されかけて、吐いて、血まみれになって。

それでも、そう思えた。

生きているだけで儲けもの、と女神の前で言った。あれは、強がりだった。

今は、少し、本気でそう思える。

これから、街に行って、冒険者とやらになって。

剣術を上げて、レベルを上げて。

のんびりやろう。

派遣の倉庫作業員だって、三年やったら、棚の場所は全部覚えた。

「……よし」


道の先に、森が迫っている場所があった。

木々が道の両脇まで張り出していて、そこだけ、昼なのに薄暗い。

少し、嫌な感じがした。

(森は、ゴブリンがいた方角だ)

足が、自然と、遅くなる。

迂回する道はない。左は森、右は崖に近い斜面。

剣の柄に、右手を添えた。

一歩。

二歩。

森の中は、静かだった。鳥の声もない。

それが、余計に嫌だった。

三歩目で、聞こえた。

「――っ、こっちに来んな!」

女の子の声。

同時に、獣の唸り声。

低くて、太い。ゴブリンの声とは、まるで違う。

俺は、立ち止まった。

足が、止まった。

(……行くのか)

今朝の俺なら、迷わず逃げていた。ゴブリン二匹から、迷わず逃げたのと同じように。

でも、今は、ちょっとだけ剣が振れる。

それだけで、行く理由になるのか。

「――っ、三匹目、どこ行った!?」

悲鳴に、近い声だった。

体が、先に動いた。

俺は、走った。

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