第三十四話 ありか
前脚が降りてきた。
降りるという速さではなかった。落ちる速さだ。俺の胴ほどある黒い脚が天井から床まで一息で来る。半歩右へ。狼のときと同じ半歩。
足りなかった。
脚は俺の左肩をかすめて床を叩き、叩いた床が割れて破片が脇腹に飛んだ。
HP:72 → 58。
かすっただけで十四。
転がって距離を取った。獣は追ってこない。持ち上げた脚を戻してこちらを見ている。目の高さは変わらない。俺の目と同じ高さで霧の奥の二つの光が動かない。
あの獣で覚えたことが一つある。
体は霧だ。刀も矢も通る。硬いのは前脚と額の石だけで、殺し方は石を割ることだけ。
額に石はない。
なら前脚だ。前脚が硬いなら斬れる。斬れれば動けなくなる。
「レン」
ユーリの光が来た。
白い光が獣の前脚を床に縫い止める。あの獣のときは五秒持った。
二秒だった。
獣が脚を持ち上げると光がそのまま千切れた。縫い止めたのではない。獣が動くまでの二秒だけ床に貼り付いていただけだ。
「……重すぎる」
ユーリの声が低い。
「止められません。動くまでの一瞬だけです」
一瞬でいい。
二秒後にもう一度光が来る。それを待って獣の前脚の付け根に刀を入れた。
弾かれた。
石を斬ったような手応えだった。刃が滑って手が痺れる。あの獣の前脚も硬かった。これはそれより硬い。
刀を引いて、頭の横へ回った。額が目の前にある。霧だ。石はない。
斬った。
手応えがなかった。
刀は霧の中を通って何にも触れずに抜けた。
獣の頭が横に振れた。
見えていたが間に合わない。頭の側面が胸を打って背中が壁に当たる。壁の石が背骨に食い込んだ。
HP:58 → 39。
息ができない。
床に落ちて刀だけは離さなかった。
獣は追ってこなかった。
俺が立つまで待っていた。
待っているのではない。急ぐ理由がないだけだ。
「……レン。立てますか」
「…...大丈夫」
立てたが膝が笑っている。
ユーリが獣を見ていた。
鑑定の目だ。トリムで俺を読んだのと同じ、相手を見て数字を拾う目。
その目が止まらなかった。
拾う数字がないときの目を俺は初めて見た。
「……読めません」
ユーリが言った。
「何も。名前もレベルもHPも。全部」
「……全部?」
「全部です。影狼は読める。石の獣も名前は出ませんがレベルは読めた。これは何も出ない」
階段の外。
その言葉が浮かんで俺は口にしなかった。ユーリも言わなかった。ただ名前がないものは神が置いたものではないと、あの獣のときにユーリが言ったことを二人とも覚えていた。
獣が動いた。
今度は頭から来た。頭を低くして俺の腰の高さで突っ込んでくる。
半歩では避けられない。一歩跳んだ。跳んだ先で獣の背中の棘が肩をかすめる。
HP:39 → 33。
着地して振り向いて、獣がこちらを向かないうちに後ろ脚を斬った。弾かれた。首。抜けた。前脚。弾かれた。
脚を斬れば弾かれる。顔を斬れば抜ける。
斬る場所がない。
獣が来る。頭から。避けた。棘。HP:33 → 28。前脚。避けた。床が割れる。破片。HP:28 → 24。
避けて避けて削られて避けた。
バルガスの声が頭にある。当たらねえ場所にいろ。いた。当たらない場所にずっといた。それでも削られる。器が違う相手は当たらなくても削ってくる。
背中が壁に触れた。
下がる場所がなくなった。
獣が頭を下げる。突っ込んでくる前の姿勢だ。避けられない。左にも右にも壁がある。
突いた。
狙ったのではない。押し返すためだけに、来る物の真ん中へ刀を出した。霧に刺さっても意味がないのは分かっていた。分かっていて出した。他に出せる物がなかった。
刀の先は獣の胸へ向かっていた。
獣が、体をひねった。
突っ込んでくる頭がそのまま右へ流れて、胸が刀の線から外れて、代わりに肩が俺に当たった。壁に押し付けられて息が止まる。
HP:24 → 15。
床に落ちた。
獣は下がった。俺を潰さずに下がった。
肩の痛みより先に、一つのことが頭にあった。
(……避けた)
霧は避けない。
俺の刀は霧を何度も通った。額も首も後ろ脚も、刺しても斬っても通る。通る物を避ける理由はない。実際この獣は、額を斬られたとき避けなかった。首を斬られたときも。
胸だけ、避けた。
避ける理由があるのは、当たる物がある場所だけだ。
「ユーリ」
声が掠れた。
「今の、見たか」
「見ました」
「胸を狙ってない。ただ突いた。……あいつが、避けた」
ユーリは獣から目を離さずに答えた。
「……霧が、避けた」
「あそこに何かある」
刀の線を思い出す。胸の左。肩の下。
人なら心臓の位置だ。
なぜそこなのかは分からない。飲んだ石が額に上がらなかったのか。飲んだのではないのか。分からない。分かっているのは、あの獣が胸の左だけを刀から遠ざけたことだけだ。
二度目を試す余裕はなかった。
HP:15。次に一発もらえば終わる。試して外れたら死ぬ。試さなくても、このままなら死ぬ。
所持SP:3。
窓の隅にその数字がある。身体強化Lv2を5にすれば、脚が降りる前に潜れるかもしれない。
貯めてください。使う場所は王都で分かります。
ここは王都の手前だ。
(……違う)
潜っても脚が降りる。速さの問題じゃない。脚が降りてくるから届かない。降りてこなければ二秒は要らない。
脚を止めるのではなく、上げさせる。
「ユーリ。脚じゃない。目を撃ってくれ」
「……目、ですか」
「光を目に。潰さなくていい。驚かせるだけでいい」
ユーリは答えなかった。
答えずに剣を構え直した。それが答えだった。
獣が頭を下げた。
その目に光が入った。
白い。廊下の魔石の光とも松明の光とも違う。ユーリの光は暗い部屋の中でそれだけが色を持っていた。
獣が初めて声を出した。
吠えたのではない。息が漏れる音だ。霧が震えて獣が後ろ脚で立ち上がった。前脚が二本とも床を離れて頭が天井に近づいて胸が――
開いた。
俺はもう走っていた。
立ち上がるかどうか分からないまま走った。剣術Lv8の足は獣の胸の下に四歩で着いた。
胸の左。肩の下。
霧の中に刀を入れた。
止まった。
霧の奥で刀の先が何かに当たって止まった。硬い。
あった。
押した。
動かない。
両手で押した。刃が表面で滑って食い込まない。押し込む力が足りない。筋力二十の腕では刃を立てられない。
上から脚が降りてきた。
背中に棘が入った。
HP:15 → 4。
押し潰される。獣の脚の重さが背中に乗って胸が床に近づく。刀は当たったままだ。押せない。抜けない。
押せないなら。
刃を返した。
押すのをやめて手首だけを回した。剣術Lv8の手首は当たった刃をそのまま面に沿って滑らせて端を探した。
端があった。
拳ほどの物にも角がある。角に刃が掛かった。掛かった刃を押すのではなく引いた。
割れた。
音は小さかった。あのときと同じ、杯が床に落ちるくらいの音。
霧の中で光が生まれた。
割れ目から白い光が漏れて霧を内側から照らして俺の顔に当たった。背中の重さが消える。脚が、霧が、棘が、目が、上から順に光の粒になって天井まで上がって消えた。
床に俺だけが残った。
【名称不明の魔物を討伐しました】
【経験値 +2,400】
【レベルアップ】Lv12 → Lv13
【SP +1】(所持SP:4)
【ドロップ:なし】
名称不明。
あのときと同じ字だ。
うつ伏せのまま窓を閉じた。閉じてから手が震えているのに気づいた。HP:4。震えて当たり前だ。
ユーリの足音が近づいて横で止まった。
俺は顔を上げなかった。上げられなかった。
「……生きていますか」
「生きてる」
「そうですか」
それだけ言ってユーリは膝をついた。
俺の横にではない。獣が消えた場所にだ。
床に割れた石があった。
拳ほどの黒い石が二つに割れて、割れ目から白い光がまだ薄く漏れている。その横に白い物が一つ落ちていた。
胸当ての破片だった。
聖騎士の白い鎧の胸の部分だけ。割れて縁が焼けている。
ユーリはそれを拾った。
裏返した。
松明の光の中で小さな刺繍が見えた。
四。
七ではない。
「……第四聖の隊です」
ユーリが言った。
「イグナス様。治癒の聖人と呼ばれる方で、七聖で一番弱いと言われている。隊も戦わない。傷を治して死者を送る隊です。遺構に降りることはない」
「戦わない隊の騎士が」
「ここにいる理由が、一つしかない」
ユーリは胸当ての破片を見たまましばらく動かなかった。
それから割れた石を見た。
拳ほどの石。ヴェルナーの石は親指の先ほどだった。監察官が一人に一つ懐に持たされる大きさだ。
これは飲める大きさではない。
「……飲んだのなら額に出ます」
「ヴェルナーがそうだった。トリムの獣も。石を飲んだ者は額に石が出る。……これは胸にあった。飲める大きさでもない」
「なら」
「飲ませたのではない」
ユーリは石を持ち上げた。割れ目の光が指の間から漏れる。
「埋め込んだ。胸を開いてこの石を入れて閉じた。……そうとしか考えられない」
俺は床に頬をつけたまま聞いていた。
「殉教の慈悲ではない」
ユーリの声は変わらなかった。変わらない声でそこまで言った。
「試したのです。飲ませるのではなく埋めたらどうなるか。試す相手に、一番弱いと言われる隊の者を使った。いなくなっても誰も探さない隊を」
「……実験体、か」
「……」
何も言わずユーリは石の欠片を鎧の内側に入れた。
胸当ての破片も入れた。
トリムでは何も拾わなかった。今度は拾った。
「レン」
ユーリが立ち上がった。
「分かりました。何と報告するか」
「……」
「何も報告しません。この部屋のことも、この石のことも、あなたが鑑定の水晶に触れるかどうかも。……教会は飲ませた者を捨てているだけではない。埋め込んで、試して、ここに捨てている。私の隊の三人が上にいて、第四聖の隊の一人がここにいる。私は今日まで何も知らずに、部下に石を持たせてきた」
「上がります。歩けますか」
「……歩けるよ」
ユーリが肩を貸そうとして俺が断って、それでも階段の三段目で膝が折れて結局貸してもらった。




