第三十三話 捨て場
八層の反対側の扉を抜けると、松明の柱がなくなった。
壁の魔石だけが光っていて、それも上の層より弱い。廊下の幅は同じで、床も同じ切り出した石だが、埃の積もり方が違う。人が歩いていない。
「九層から下は、七聖でも降りる理由がありません」
ユーリが前を歩きながら言った。
「魔物は上と変わらない。魔石も大きくならない。降りても、得る物がない」
「なら」
「だから、あるなら、ここより下です」
九層は静かだった。影狼が一頭、廊下の角から出てきて、ユーリの光が縫い止める前に俺の刀が届いた。それきり何も出ない。気配察知は鳴らない。ただ足音だけが前と後ろから返ってくる。
十層への階段は、上のどれよりも狭かった。
壁に肩が触れる。段は摩耗していない。踏んだ人間が少ない、ということだ。
十層の廊下は、途中で終わっていた。
石を積んだ壁で塞いである。新しい壁だ。周りの石より色が薄い。その手前、廊下の脇に、横穴が一つ開いていた。
ユーリが足を止めた。
しばらく動かなかった。松明を横穴に向けて、中を照らして、それから入った。
俺も続いた。
横穴の奥は広い部屋だった。天井が低くて、松明の光が壁まで届かない。届く範囲の床に、黒い染みが重なっている。一つではない。染みの上に染みがあって、その上にまた染みがある。
折れた武器。錆びた鎧の破片。灰色の法衣の切れ端。教会の紋章の入った靴。
トリムの四層と同じ物が、同じように散らばっていた。
違うのは量だった。
トリムのは一つの部屋に収まっていた。ここは、光の届かない奥まで、床が見えない。
白い外套が三枚、壁際に畳んで置いてあった。監察官の外套だ。背中の階段の紋章まで、そのまま。畳んであるのが、俺には一番嫌だった。捨てたのではない。片づけてある。
ユーリが外套の前に膝をついた。
一枚を取って、襟の裏を返す。松明を近づける。
小さな刺繍が一つ。数字だ。七。
「……私の隊の印です」
声が変わらなかった。変わらないまま、二枚目の襟を返した。七。三枚目。七。
「三人とも、私が王都へ送った者です。去年に一人、今年に二人。監察官への転属を、私が推した」
ユーリは外套を膝の上で畳み直した。元の形に。
「退役の報せを受けています。三人とも。故郷に戻ったと」
それ以上は言わなかった。
言わないことが、ここでも答えだった。
俺は床を見ていた。黒い染みの一つに、靴が片方だけ埋まっている。教会の紋章。俺のものより小さい。
「ユーリ」
「はい」
「……ヴェルナーは、ここにいない」
「トリムの四層です。石の欠片しか残っていない。外套は、私の鎧の中にあります」
ユーリは立ち上がった。
外套三枚を、壁際に戻した。畳んだままで。
「知っていた、と言えば嘘になります。知らなかった、と言えば、もっと嘘になる。私は部下に石を持たせて、殉教の慈悲だと教えて、退役の報せを読んで、故郷に戻ったのだと思っていた。……思うことに、していた」
俺は何も言えなかった。
言えることがなかった。俺は倉庫で荷物を運んでいただけの人間で、部下も持ったことがない。
気配察知が、鳴った。
遅かった。
鳴ったときにはもう、部屋の奥の暗がりに目があった。
青白い目が二つ。影狼のものより高い位置にある。俺の頭の高さ。俺が立ったまま、まっすぐ見返せる高さだ。
ユーリが剣を抜いた。
この遺構に入ってから、初めてだ。
「……レン」
「見えてる」
「下がってください。それは、影狼ではない」
暗がりが動いた。
床の染みを踏んで、光の届く場所へ、それは一歩だけ出てきた。
四つ足。黒い霧の体。背中に骨の棘が並んでいる。あの獣と同じ形で、あの獣より二回り大きい。前脚の一本が、俺の胴ほどある。
額を見た。
石がなかった。
ヴェルナーの獣は額に親指の先ほどの黒い石があった。バルガスが斬った父の獣もそうだ。石を割れば光になって消える。それだけが、あの獣の殺し方だった。
これには、ない。額は霧のまま、目だけが浮いている。
「……石が」
「ありません」
ユーリの声が、初めて硬かった。
「二つ目、です」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。俺にではない。たぶん、自分にでもない。
獣は吠えなかった。
吠えないまま、前脚を一本、床から持ち上げた。




