第三十二話 外壁
列は、丘の手前で止まった。
壁は見えている。丘の稜線の上に灰色の線が一本走って、その奥に塔の先が幾つか黒く立っている。日はもう稜線に触れていて、線の色が石から影に変わり始めていた。
「今夜はここで」
ユーリが馬を降りながら言った。
「王都の門は日没で閉まります。開くのは朝の鐘です」
「壁は見えてるのに」
「見えていても、閉まります」
街道の脇の草地に、他の旅人の荷馬車が何台か止まっていた。同じように朝を待つ者たちだ。騎士たちが手際よく火を起こし、馬を繋ぎ、俺の馬の荷を下ろす。俺は黒い包みを自分で受け取って、火の近くに置いた。
ユーリは火に当たらなかった。
鎧のまま丘の方を見ていて、副官らしい騎士に短く何か言った。騎士が頷いて、二騎を連れて丘の斜面へ登っていく。しばらくして、斜面の途中で松明が二つ止まった。
「レン。来てください」
「どこへ」
「遺構です」
ユーリは俺を見なかった。
「王都の遺構は、あの丘の腹にあります。教会が管理する遺構の中で、一番大きくて、一番深い。門は聖騎士団が守っていて、七聖と、七聖が伴う者しか入れません」
「……なんで、今」
「あなたを置いていけないからです。私の預かりですから」
「そうじゃなくて。ユーリがなんで入るのか」
ユーリはそこで初めてこちらを見た。火の光が金色の目に入って、揺れた。
「トリムの遺構の四層に、捨て場がありました」
声が低かった。
「捨て場を見たのは、あれが初めてです。教会が管理する遺構で、あれと同じ物を見たことがない。あの遺構だけの話なのか、どこも同じなのか。それを、王都に入る前に知っておきたい」
俺は何も言わなかった。
ユーリは剣の柄に手を置いて、外套を払った。
「行きますか。行かなくても、あなたを咎める理由はありません」
「行く」
考える前に言っていた。
ユーリは頷いて、松明の方へ歩き出した。
斜面を登ると、岩の間に門があった。
崖に彫られた石の門で、柱に階段の紋章がある。削られていない。七段がはっきり残っていて、松明の光で影が段になる。トリムの門とは逆だ。あちらは紋章を消していた。こちらは誇っている。
門の前に白い鎧が二人。ユーリを見て頭を下げ、俺を見て、何も言わなかった。
「降ります。朝までに戻る」
「はっ」
鉄の扉が内側へ開く。
中は、あの遺構と同じ匂いがした。湿った石と、魔石の青白い光。ただ壁が違う。切り出した石が隙間なく積まれて、床は平らで、松明の柱が等間隔に立っている。人の手が入っている。教会が三百年、ここを使ってきたのが壁で分かる。
「ここには騎士がいません」
ユーリが階段を降りながら言った。
「Lv4の縛りは要りません。好きに振ってください」
刀の柄に手を置いた。
十日ぶりに、隠さなくていい手だった。
二層で影犬が来た。
三匹。壁の魔石の光の中で、青白い目が六つ浮いて、床を這うように近づいてくる。気配察知が知らせるより先に、目で見えた。
剣術Lv8の目に、三匹は遅かった。
一匹目が跳ぶ前に踏み込んで、首の下に刀を入れる。手応えは霧を切るのに似ていて、切った先で青い目が一つ消える。二匹目が横から来るのを鞘の側で払い、返す刀で額を割った。三匹目は俺の背中を狙って壁を蹴り、その跳んだ先に俺がいた。着地と同時に刀が降りる。三匹目の目が消えるまで、俺は一度も息を止めなかった。
【影犬を討伐しました】
【影犬を討伐しました】
【影犬を討伐しました】
【経験値 +450】
窓が出て、閉じた。
ユーリが後ろで立ったまま見ていた。剣は抜いていない。
「……その刀で、初めて見ました」
「うん」
「見なかったことにしていたものを、見た気分です」
それだけ言って、また先に立った。
三層、四層。ユーリは四層で一度足を止めて、廊下の横穴を一つずつ覗いた。何もなかった。折れた武器も、法衣の切れ端も。
「ここには、ない」
「じゃあ」
「分かりません。下です」
五層の階段を降りたところで、気配察知が初めて先に鳴った。
廊下の奥に、目が並んでいる。青白い光が十。影狼が五頭。あの遺構で一頭ずつ相手にした獣が、今度は群れで、廊下の幅いっぱいに広がって来る。
「私は手を出しません」
ユーリが言った。
「見ておきたい」
言い返す暇はなかった。
一頭目が跳んだ。低い。床を舐めるように来て、喉を狙う。半歩右へ。狼の頭が肩の横を抜けて、その首筋に刀を置く。置いただけだ。振っていない。それで霧が裂けて、目が一つ消えた。
二頭目と三頭目が同時に来た。左右から。剣術Lv8の目には、来る場所が先に見えている。だが二つ同時に来るものを、一本の刀では一つしか斬れない。左を斬った。右は避けた。避けきれずに、牙が腕の外側を持っていった。
HP:87 → 72。
噛まれた腕を引かずに、その腕ごと刀を回した。三頭目の額に刃が入る。
残り二頭は跳ばなかった。廊下の奥で低く構えたまま、こちらを見ている。学んでいる。
俺も学んだ。跳ばない獣は、跳ばせればいい。
一歩前に出た。それだけで四頭目が来る。来ると分かっている一撃は、もう一撃ではない。踏み込んで、上から割った。五頭目が四頭目の体を踏み台にして俺の頭の上を越え、後ろに着地する。振り向く前に背中に牙が来る位置だ。
振り向かなかった。
刀を逆手に持ち替えて、体の横から後ろへ突いた。見えていなかった。ただ剣術Lv8の体が、着地する場所を知っていた。手応えがあって、背中の気配が消えた。
【影狼を討伐しました】×5
【経験値 +1,500】
窓を閉じて、腕を見た。血が肘まで垂れている。応急手当Lv1で布を巻いた。止まりはしない。遅くなるだけだ。
ユーリが横に来た。
「……最後の一本は、見えていましたか」
「見えてない」
「私もです。着地の場所が分かるのは、剣術Lv8より上の話です」
それだけ言って、ユーリは答えを待たずに先へ行った。
六層、七層。影狼はもう群れでは来なかった。一頭、二頭。ユーリが光で脚を縫い止めて、俺が額を割る。あの獣のときと同じ形で、あのときより早く終わる。二人とも、それについては何も言わなかった。
八層に、丸い部屋があった。
廊下が突き当たって、丸い扉が開いている。中は天井の高い円形の部屋で、その真ん中に、青白いものが立っていた。
水晶だ。
ギルドの受付にある水晶を、人の背丈ほどに伸ばしたような、磨いていない一本の柱。岩から生えたまま、切り出されていない。部屋の壁を、ぐるりと文字が囲んでいる。
俺の国の字だ。
「七聖の間です」
ユーリが足を止めた。
「七聖は、ここで鑑定を得ます。十七のとき、師匠に連れられて、私もここで触れた。教会の外の人間が触れたことは、記録にありません」
「……鑑定の水晶」
「はい」
俺は壁の字を目で追った。
――触れよ。汝、見る者となれ。
それだけだった。読めたことは言わなかった。
「触らないでください。……今は」
ユーリは水晶を見ずに、反対側の扉を指した。
「用事は下です。帰りにも、ここを通ります」
含みのある言い方だった。それが含みなのか、ただの道順なのか、ユーリの顔からは分からなかった。
俺は水晶の横を抜けた。
指先が、少しだけ冷えた気がした。触れていないのに。




