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第2章完 第三十話 見なかったこと

扉の外は、崖の裏側だった。

 斜面に切られた細い道が、木の根の間を縫って上へ続いている。人が通らなくなって久しいらしく、道というより獣の通り道に近い。ユーリが先に立ち、枝を払いながら登った。俺はミアを背負い、胸当ての包みを腕に抱えて、その足跡を踏んで上がる。二度、根に足を取られた。二度ともミアが背中で「左」と言ったので、三度目はなかった。

 登り切ると森が開けて、灰色の街道が見えた。

 夕方だった。落ちたのが夜明け前だったから、丸一日近く地面の下にいたことになる。街道の向こうに低い丘が続き、その先はもう見えない。トリムは背中の方角だ。

「街道です」

 ユーリが言った。

「王都へは、あちらへ十日。トリムへは、戻れば半日」

「戻らないのか」

「戻れません。ヴェルナー殿の部下は、まだ街にいる。監察官が死んだと分かれば、あれは私の預かりを無視して動きます」

 ユーリは腰の袋から短い角笛を出し、街道の方角へ向けて三度吹いた。獣の遠吠えに似た音が丘の方まで転がっていく。

「聖騎士団の半分は、街道の宿場に置いてあります。あの音で明朝には来る」

「用意がいいな」

「あなたが逃げると思って置いたのではありません。教会の者があなたを横取りすると思って置いた」

 そう言って、ユーリは森の縁に戻り、枯れ枝を集め始めた。

 俺はミアを下ろして、街道の脇の草の上に座らせた。足首は赤黒く腫れている。応急手当Lv1でできるのは布を巻き直すくらいで、それをやった。

「……レン」

 ミアが小さく言った。

「私、明日は戻る」

「足でか」

「馬で。あの子が貸してくれるでしょ」

 あの子、というのが七聖のことだと分かるまで少しかかった。ミアはユーリを最初からそう呼ぶつもりだったらしい。

「戻って、マスターに怒られて、それから来る。二年前の記録は私が自分で見たい。あんたに見てもらうんじゃなくて」

「バルガスが許すか」

「許さなくても来る。でも、許してもらってから来る方が早い。直属は、マスターが許せばどこにでも行けるの」

 ミアは草の上に弓を置いた。弦のない黒い弓は、夕方の光の中では本当にただの曲がった木に見えた。


 夜になって、火を起こした。

 ユーリは火のそばに座らなかった。「見張ります」とだけ言って、街道が見える岩の上に登り、そこで剣を抱えて座った。距離は五十歩ほどある。火の音は届かないが、声を張れば届く距離だ。

 俺は火の向かいに横になった。眠るつもりはなかったが、丸一日の疲れは自分で思うより深かった。目を閉じたつもりはない。

 目を開けたとき、火は小さくなっていた。

 ミアが立っていた。

 火から少し離れた、暗い方の草の上に。片足に体重をかけて、もう片方をかばうように立っている。手には、あの弓があった。

 構えている。

 弦はない。ないはずだ。それなのにミアの右手は、弦のあるべき場所を確かにつまんで、引いていた。

 風の音がした。

 弓と右手の間に、白い線が張っていた。細くて、揺れていて、火の光が当たるとほとんど見えなくなる。ミアの髪が後ろへ流れる。焚き火の煙が、ミアの方へだけ曲がる。

 線が、鳴っていた。

 弓の弦が鳴るあの音を、風が出していた。

 俺は動かなかった。息をするのも遅らせた。ミアは矢をつがえていない。ただ引いて、引き切って、そこで止まっている。その顔は、俺が初めて見る顔だった。笑ってもいない。泣いてもいない。ただ、何かをずっと待っていた人間が、それを手にした顔だった。

 ミアがゆっくり手を離した。

 風が消えて、線が消えて、髪が落ちた。

 草を踏む音がした。ミアが振り返る。俺は上体を起こしていた。隠す暇はなかった。

「……起きてたの」

「今」

「どこから」

「引いたところから」

 ミアは弓を下ろして、しばらく火を見ていた。それから、火の向かい側に座った。片足を投げ出して、弓を膝に置いて。

「……魔法?」

「言わなかっただけ」

 ミアの声は、思ったより落ち着いていた。

「風の適性。生まれつき。学舎には行ってない。父さんが死んでから、教会に何かを教わるのが嫌になったから。自分で覚えた。Lv1。矢がちょっとだけ曲がる、それだけの魔法」

「なんで隠した」

「独学の魔法は教会が嫌う。それに――」

 そこで言葉を切って、弓を撫でた。

「あんたが来る前は、隠す理由なんて一つもなかった。誰にも見せる価値がなかったから」

 火が爆ぜた。

「壁の字を読んだとき、分かってた」

「何を」

「これは私の弓だって。三百年前の誰かの弓で、私の弓」

 ミアは弓を膝から持ち上げて、火の光にかざした。

「あんたが刀を持ったとき、手が知ってたって言ったでしょ。あれと同じ。触った瞬間に、弦の引き方が分かった。教わってないのに」

 俺は何も言わなかった。言うことが見つからなかった。

「ユーリには」

 ようやくそれだけ聞いた。

「言わない。教会の人間だもの。……あんたも言わないで」

「言わない」

 そのとき、岩の方から声がした。

「――言いません」

 ユーリが立っていた。

 いつからそこにいたのか分からない。五十歩の距離を、足音も立てずに来ていた。気配察知Lv5が何を察知するのか、俺は初めて具体的に理解した。

 ミアの手が、弓を握り締めた。

「風は、見えました」

 ユーリは火の輪の外に立ったまま、静かに言った。

「岩の上からでも、煙が曲がるのは見える。あなたが何を引いたのかも」

「……それで」

「見なかったことにします」

 ミアが顔を上げた。

「私の任務は、レンを王都へ連れていくことです。弓使いの適性を報告することは、任務に入っていない」

「教会の人間が、それでいいの」

「教会の人間だから、入っていない任務はやらない」

 ユーリはそれだけ言って、岩の方へ戻ろうとした。それから足を止めて、こちらを見ずに付け足した。

「……ただ、ミアさん。それを人前で引くときは、私がいないところで。私は鑑定を持っている。見えてしまえば、見なかったとは言えなくなる」

 足音は、今度も聞こえなかった。


 夜明け前に、馬の音がした。

 街道の東から白い鎧が十五騎、朝の霧を割って来た。先頭の騎士がユーリの前で馬を降り、深く頭を下げる。ユーリは短く指示を出した。二騎をトリムへ。ミアを送り届け、ギルドマスターに引き渡す。それまでの安全は聖騎士団が保証する。

「あの子に借りを作った」

 ミアは馬に乗せられながら、小さく言った。

「王都で返す。あんたも一緒に」

「返し方があるか」

「ご飯。あんたのおごり」

 それだけ言って、ミアは前を向いた。二騎の騎士に挟まれて、馬が街道を西へ歩き出す。ミアは振り返らなかった。背中の矢筒の横で、弦のない黒い弓が揺れていた。

 俺は残った十三騎と、ユーリと、街道の東を向いた。

「……一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「なんで、生きたままなんだ」

 ユーリは馬の轡を取ったまま、しばらく答えなかった。

「私は理由を聞かされていません」

「だろうな」

「ですが、大聖堂を出るとき、猊下が一言だけ仰った」

 ユーリは俺を見た。金色の目は、朝の光の中でも変わらなかった。

「――教皇猊下は、あなたを殺したいのではない。会いたがっておられる」

 俺は何も言えなかった。

 殺したい、の方が、まだ分かる気がした。

「それから、もう一つ」

 ユーリが馬に乗る。

「王都に入ったら、第二聖の前で剣を抜かないでください。……あなたの為に言っています」

 それきり、ユーリは前を向いた。

 俺も馬に乗った。刀は左腰に、包みは鞍の後ろに。

 街道の東に、太陽が上がってきた。


 第二章 了

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