第二十九話 扉の奥
読み終えても、ミアは石の扉から目を離さなかった。父のプレートが胸の前で自分のプレートに当たって、小さく鳴る。
「代価なき者」
ユーリが低く繰り返した。復唱ではなく、確かめる声だった。
「……あなたのことですね」
俺は答えなかった。答える代わりに、扉に近づいた。
捨て場の床は歩くたびに何かが砕ける。折れた矢、錆びた鎧の破片、誰かの靴。それを踏まないように避けて扉の前に立つと、石の表面は思ったより冷たくなかった。三百年、誰も触れなかった石の温度がどれくらいか知らないが、これは人の肌に近い。
右手を置いた。
何も起きない。
もう少し強く押す。石はびくともせず、掌に冷たさだけが残っていく。
「……違うのか」
「触れよ、でしょ」
ミアが後ろから言った。
「押せ、じゃない」
手を離して、指先だけを当て直した。押さない。ただ触れる。
扉の奥で、何かが動いた。
音ではなく振動だった。掌から腕に伝わって、肩まで来て止まる。石と石が擦れる低い響きが廊下いっぱいに広がり、扉が内側へ傾いていく。隙間から流れてくる空気は、廊下の霧の匂いとは違った。埃と、古い布と、乾いた木の匂いだ。
「開く……」
ユーリが一歩下がり、剣の柄に手を置いた。慣れた動きだった。
扉は俺の身長ほど開いたところで止まった。奥は暗い。壁の魔石の光はここまで届かないらしい。
ミアが立とうとして、足首を押さえて座り直す。
「背負う」
「今度は落とさないでよ」
背中にミアの重さが乗る。左肩の傷がその重さで軋んだ。ユーリが先に立って中を覗き、俺を振り返る。
「私が先に入ります。もし何かあれば――」
「いや」
自分でも意外なほど、はっきりした声が出た。
「俺が先に入る。書いてあった」
ユーリは一瞬だけ俺を見て、それから脇に寄った。
俺はミアを背負ったまま、三百年閉じていた扉をくぐった。
中は廊下より暖かかった。
入って数歩でそれが分かる。床は石ではなく木だ。歩くと軋み、埃が舞って、ユーリが後ろで小さく咳をした。ミアが背中で身をよじって周りを見る。
「明かり、ないの」
「あるらしい」
部屋の奥で、青白い光が一つ灯った。
壁に埋まった魔石ではない。天井から吊るされた、鉄の籠の中の石だった。誰かが入るのを待っていたように、一つ、また一つと灯っていき、部屋の全体が見えてくる。
広くはない。灰猫亭の食堂ほどだ。
壁の一面に、木の台が据えられている。そこに黒い物がいくつも並んでいた。
俺はミアを部屋の隅の木箱に座らせて、台に近づいた。
胸当て。黒い鱗を重ねたような作りで、光を吸って鈍い。胸の中心に階段の紋章がある。削られていない。
その隣に、畳んだ黒い外套。襟が高く、袖に細い糸の縫い取りがある。同じ黒糸だから、近づかないと見えない。
そして、その上に横たえられた一本の――
息が止まった。
剣ではない。
反っている。片刃だ。鞘は黒い漆で、柄には黒い紐が巻いてある。鍔は丸くて、飾りが何もない。
「……刀」
声に出してから、それがこの世界の言葉ではないと気づいた。
「とう、じゅつ?」
ミアが聞き返す。
「いや。何でもない。……剣だ。見たことのない形の」
ユーリが横に立って、刀を見下ろした。
「王都の武具庫にも、こういう形の剣は一本もありません。曲がった剣は蛮族の物だと教わりました」
俺は答えなかった。刀に手を伸ばして、鞘ごと持ち上げる。軽い。日本刀を持ったことなど前世にも一度もないのに、なぜか手が知っていた。左腰に差すべきだと。
握った瞬間、頭の中で窓が開いた。
【武具『刀』を装備しました】
【スキル『剣術』が適用されます】
剣術で振れる。それだけ分かれば十分だった。
胸当ては外套で包んで、一つにまとめた。誰の物かは分からないが、置いていく理由もない。
「レン」
ミアの声が、部屋の反対側から飛んできた。
「壁」
振り返る。
台の向かい側の壁一面に、文字が刻まれていた。縦に。上から下へ。門にあった神代文字と同じだと、最初は思った。
思ったのは一瞬だった。
「……嘘だろ」
「読めるの」
「読める」
喉が乾いていた。
「読めるんじゃない。……これ、俺の国の字だ」
ミアが黙った。ユーリが壁に近づき、指で一つの字をなぞって首を振る。
「教会の学者が三百年かけて解けなかった文字です。……あなたの国の」
「ああ」
俺は壁に向き直った。
ひらがなだった。漢字だった。縦に彫られた文字は、三百年前の誰かが石を削って書いたにしては、手慣れすぎていた。書き慣れた人間が、書き慣れた字を、書き慣れた向きで彫ったのだ。
一行目。
――神は器を求む。代価なき器を。
二行目。
――俺は器にならなかった。だから消された。
三行目からは、字が少し乱れていた。急いで彫ったのか、それとも手が震えていたのか。
――ここより下は、階段ではない。教会はそれを認めない。
――刀は置いていく。読める奴が来たら使え。
――弓は風を引く者の物だ。相棒の物だった。返せなかった。
――同郷の者へ。俺は名を捨てた。お前も捨てろ。ここでは名が代価になる。
最後の一行は、ほとんど彫れていなかった。
――もし、あいつが
そこで終わっている。
俺は壁の前で、しばらく動けなかった。
同郷。
三百年前に、俺と同じ場所から来た人間がいた。同じ空欄で、同じ言葉で、同じように何かから逃げて、この部屋で名を捨てた。
そして、消された。
「……レン」
ミアが呼んだ。
「何て書いてあるの」
俺は壁を見たまま答えた。
「神は器を求む。代価なき器を」
「それだけ?」
「……刀は置いていく。読める奴が来たら使えって。あと」
次の行を、俺はそのまま読んだ。
「弓は風を引く者の物だ。相棒の物だった。返せなかった」
ミアが黙った。
長い沈黙ではない。息を一つ吸うくらいの間だ。だが、その間はミアの物だった。俺は振り返らなかった。
「……風を引く者って」
「さあ。魔法の適性のことじゃないか。ローナが言ってた、五つのやつ」
「そう」
それきりミアは何も聞かなかった。
ユーリは何も聞かなかった。壁の字を見て、俺を見て、それから台の上に残った包みを見た。何か言いかけて、口を閉じる。
「……王都には」
ようやく言った。
「ここのことを、報告しなければなりません」
「分かってる」
「ですが、何と報告するか。私はまだ決めていない」
俺はそれには答えず、台の隅に目をやった。
黒い木の弓が、壁に立てかけてあった。
弦がない。
ミアが弓を手に取ったのは、俺が刀を腰に差し終えたときだった。
「レン。これ」
木箱から降りて、片足を引きずりながら台まで来る。壁に立てかけてあった黒い木の弓に手を伸ばし――
指が触れた瞬間、ミアの動きが止まった。
ほんの一拍だ。弓を持ち上げる途中で、手だけがそこに留まって、それから何事もなかったように持ち上げる。
部屋の埃が、ミアの周りだけ流れた。
風なんてない。扉は閉まっている。天井の籠の光が揺れたわけでもない。ただ舞っていた埃が、ミアの髪の先をなぞるように一度だけ動いて、また落ちた。
俺はそれを見た。見たが、遺構の空気の癖だろうと思った。
「……弦がない」
ミアの声はいつもと同じだった。弦の付くはずの場所を親指でなぞって、弓を横に構え、木の反りを目で追う。撓めてみて、手を離す。乾いた音を立てて木が戻った。
「いい木。三百年で、まったく死んでない」
「使えるのか」
「弦を張り直せば。街に戻ったら弓屋に頼む」
当たり前のことを言う顔だった。弓使いが弓を拾った、それだけの顔だ。
ミアは弓を背中の矢筒の横に差し込んだ。左手が、そのあともしばらく弓の端に添えられたままだった。
部屋の奥に、もう一つ扉があった。木の扉で、閂が内側から掛かっている。外に通じているなら、街道の方角だ。
「出口があります」
ユーリが閂に手をかけた。
「教会の者は、外の扉の位置を知りません。ここから出れば、追っ手は遺構の中を探し続ける」
「……なんで、それを俺たちに言う」
ユーリは閂を持ったまま、少しだけ笑った。木剣の決闘のときと同じ顔だった。
「私の任務はあなたを生きたまま王都へ連れていくことです。死なせては任務になりません」
閂が外れて、扉が軋みながら開く。
風が入ってきた。土と草の匂いがする、外の風だった。
ユーリが先に外へ出て、周りを確かめてから手で合図をする。俺はミアを背負い直し、胸当ての包みを腕に抱えて扉に向かった。
最後にもう一度、壁を振り返る。
――もし、あいつが
その先を、俺はまだ知らない。




