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第二十八話 額の石

光が来た。

階段の上から白い光が廊下を走り、獣の前脚を一本、根元から消し飛ばす。

脚が黒い霧に散って、押さえつけられていた体が自由になった。

「――レン。下がって」

小さい声なのに、廊下の中の誰よりもはっきり聞こえる。

階段の上に、傷一つない白い鎧が立っていた。兜はなく、金色の髪と金色の目が、灯りの中で光っている。

右手を獣に向けたまま、指先に白い光が残っていた。

「ユーリ」

「三層で逃げてきた従者に会いました。監察官が一人で下に行ったと」

ユーリは走らずに階段を降りてくる。

「監察官はどこですか」

「……あれだ」

獣を顎で示すと、ユーリの足が止まった。

「……何を言っている」

「黒い石を飲んだ。最後の祝福って言ってた。神の加護だって」

金色の目が獣の額の石に止まり、それから床に落ちた白い外套の切れ端へ動く。

ユーリの顔に、初めて表情が出た。

「最後の祝福は、監察官が殉教するとき痛みを取り除くための、神の慈悲だと」

「そう教えられたのか」

「そう教えられた」

獣が吠え、三本になった脚でユーリに向かう。

ユーリは避けずに右手を上げた。

白い光が獣を正面から受け止める。止めただけで、消せない。

「……硬い」

「体は霧だ。矢も剣も通る。額の石だけが本物で、前脚も硬い」

「額の石」

「砕けば消える。マスターが二年前に」

獣が光を押し返した。

ユーリの足が半歩下がる。傷一つない鎧が、初めて後ろに動いた。

獣は光を振り払うと、今度は俺じゃなくユーリに跳んだ。

ユーリは剣を抜かなかった。

右手の光を消して、獣の牙が来る場所から一歩だけ横に出る。牙が空を噛み、通り過ぎた獣の首筋を、いつの間にか抜いていた剣が撫でた。

霧が裂けて、閉じる。

「……本当に通る」

ユーリは剣を見て、獣を見て、俺を見た。

「私が止めます。あなたが砕く」

「……あんたの方が剣は上だ」

「私の剣はあれの額に届く前に前脚に止められる。あなたの剣なら、私が前脚を止めている間に届く」

それはそうだった。

「あと、私の光は五秒しか持ちません。一度失敗すれば、次はもっと短い」

獣が振り向く。

ユーリが右手を上げ、白い光が今度は獣の前脚だけを狙って走り、三本の脚を床に縫い止めた。

体は縫えない。霧だからだ。脚だけを、床に。

獣が光の中でのたうち、背中の棘が鞭のようにしなって周囲の石を砕く。

「五秒」

走った。

剣術Lv7の足なら四歩で届く。

三歩目で棘が来る。今度は見えて、かがんだ頭の上を通り過ぎていく。

四歩目、額の石が目の前にあった。黒い石の中で何かが動いている。

振り抜いた剣が石を割った。

ガラスの杯が床に落ちるくらいの、小さな音だった。

獣の体が光になり、粒になって天井まで上がり、消えた。

残ったのは白い外套の切れ端と、折れた剣と、割れた石の欠片だけ。

死体も血もない。バルガスの言った通りだった。


【名称不明の魔物を討伐しました】

【経験値 +1,200】

【レベルアップ】Lv8 → Lv9

【SP +1】(所持SP:1)

【ドロップ:なし】


名称不明。システムも、あれが何だったか知らなかった。

「……名前がない」

ユーリが俺の窓を見て言う。

「魔物には必ず名前があります。神が階段に置いた魔物には必ず。……名前がないものは、神が置いたものではない」

ユーリは割れた石の欠片を拾い、指先で転がした。

「これが最後の祝福。監察官は皆これを持っている。殉教のとき飲む。教会はそう教えるし、私も部下にそう教えた」

欠片を鎧の内側にしまう。

「私の部下が、今まで何人これを飲んだか。……数えたことがあります」

それ以上は何も言わない。

言わないことが答えだった。


ミアが壁際で、矢を番えたまま動かなかった。

「……ミア?」

「石を飲んだら、ああなった」

平らにしようとして失敗した声だった。

「マスターが二年前に斬ったのは、額に石のある魔物。父さんが行かされた森の奥。斧だけが落ちてて、死体はなくて」

矢を下ろす。

「魔物討伐の神命依頼で、誰も魔物を見てなかった。教会だけが知ってた。……教会は、魔物がいることを知ってたんじゃない。魔物にするつもりだったんだ」

ミアの手から矢が落ち、石の床に転がる音だけが響いた。

「魔物に殺されたんじゃない。魔物にされたんだ」

誰も何も言えなかった。

ユーリが鎧の内側の石の欠片に手を当てる。

「……確かめる方法はあります。王都の大聖堂に、二年前の神命依頼の記録が残っている。監察官に何を持たせたかも」

ミアは答えずに壁に手をついて立ち、足を引きずって俺の横まで来た。

「……先に行こ」

それしか言わなかった。


ステータスを開くと、所持SPは1。

ユーリが見ている。もう隠す相手じゃない。

剣術を押した。


【スキル『剣術』Lv7 → Lv8】(消費SP:1/残りSP:0)


背中から腕に通っていたものが、今度は指先のもう一つ向こうまで届く。

剣を握っていないのに剣がどこにあるか分かり、振っていないのに振った先が見える。

(これが、先にいる、だ)

ユーリが俺を見ていた。

「……剣術Lv8。私と同じ段」

「……うん」

「私はそこに着くのに十年かかりました」

「……俺は」

「五日、ですね」

責める声でも怒る声でもなく、ただ確かめる声だった。ミアと同じ声だ。


四層への階段を、ユーリが先に立って降りた。右手の光がミアの灯りより明るく、階段の壁に削られた紋章がいくつも並んでいるのが見える。

階段は長く、途中で二度、折れ曲がった。二度目の角で、壁に古い文字が残っていた。俺には読めたが、読まなかった。読んでいる余裕がなかった。

四層は廊下ではなく、天井の見えない広い部屋だった。

床には黒い染みと、折れた武器と、錆びた鎧の破片が散らばっている。冒険者の物だけじゃない。灰色の法衣の切れ端が何枚も落ちていて、教会の紋章がついた靴が片方だけ転がっていた。

「……捨て場だ」

ユーリが言った。

「何を捨てる場所かは、分からない」

「分かってるだろ」

「……分かっています」

ユーリは法衣の切れ端を拾わなかった。ただ見て、通り過ぎた。

ミアは足元を見ていた。その視線の先、部屋の一番奥の石の扉の前に、銀色の板が落ちている。

「降ろして」

「足が」

「降ろして!!」

降ろすと、ミアは足を引きずって扉の前まで歩き、しゃがんで銀色の板を拾った。

冒険者のプレート。銀。Bランク。裏に名前が彫ってあるが、ミアはそれを読まなかった。読まなくても分かるからだ。

「……父さん。ここまで来てたんだ」

自分が見つけた扉の前で。

ミアはプレートを握ったまま、しばらく立たなかった。俺もユーリも何も言わない。

それから立って、プレートを自分の首のプレートの隣に下げた。

二枚のプレートが、胸の前で小さく鳴った。

「……読んで」

石の扉に文字が彫ってある。

「――代価なき者のみ、触れよ」

読んでいただきありがとうございます!

今回から投稿話数が5から3に変えます。

理由としまして、私が想像してた以上にストック消費が激しくて無くなりました(›´-`‹ )


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