第二十五話 階段にあらず
落ちた時間はたぶん三秒もなかった。
背中から枝に当たった。折れた。次の枝に当たった。折れなかった。
体が回って、最後に水に落ちた。
冷たい。
HP:67 → 39。
息を吸ったら水だった。吐いて、もう一度吸ったら空気だった。
「ミア!」
「……ここ」
声がすぐ横で聞こえた。
浅い川だった。膝までしかない。崖の下を黒い水が流れている。
ミアは岸に手をついて、片足を引きずっていた。
「足」
「捻った。折れてはない」
「見せて」
月明かりで見た。腫れている。応急手当Lv1の手が勝手に動いた。矢筒の紐を解いて、足首に巻いて締める。
「……あんた、それ何で知ってんの」
「知らない。手が勝手に」
「そういうところが、ほんと」
上を見た。
崖は月明かりでも上が見えなかった。十メートルか二十メートルか。
気配察知が上に五つ。止まっている。
「降りられない」
ミアが言った。
「あそこから降りたらあいつらも落ちる。回り道するしかない。夜明けまでは来ない」
「その前にここを離れる」
ミアが立とうとして崩れた。俺が支えた。
「……歩けない」
「歩かなくていい」
背中に乗せた。
身体強化Lv2の背中は思ったより軽く感じた。ミアが軽いのか、俺が変わったのか分からなかった。
「どっちに」
「川に沿って下流。街の方角」
川を右手に、崖の壁を左手に、歩いた。
岸は石だらけで、一歩ごとに足首が取られた。水の音のせいで、上の気配が聞き取りにくい。
月が雲に隠れると、足元すら見えなくなった。
ミアが背中で灯りを出した。手のひらほどの魔石の欠片。青白い光が、二歩先までを照らす。
五十歩も行かないうちに、ミアが背中で言った。
「止まって」
「何」
「壁。……壁がおかしい」
灯りを崖の壁に向けた。
四角い影があった。
岩じゃない。石を積んだ壁。人が作った壁だ。
その真ん中が黒く抜けている。
入口だった。
背丈の倍ほどの高さの石の門。上に何かの紋章が彫ってある。
削られていた。誰かがわざと削っている。
でも、削り残しの形で分かった。
階段の紋章。
「……教会の」
ミアの声が震えていた。
「遺構。こんな場所に」
「遺構って、教会が全部管理してるって」
「管理してる。全部。……私はそう教わった」
門の柱に文字が彫ってあった。
見たことのない文字。それなのに意味だけが頭に入ってくる。
女神の言語適応。
「読める」
「何て」
「――ここより下、階段にあらず」
ミアが黙った。
背中で息を止めたのが分かった。
「教会の遺構は、全部『神の階段の一部』って教えられる。階段にあらずなんて書いてある遺構はない」
「じゃあここは」
「知らない。知らないけど」
ミアの手が俺の肩を掴んだ。
「二年前、ここから何かが出てきた。父さんが行かされた奥って、ここだ。マスターが腕を落とした奥」
背中から崖の上を見上げた。
気配が動き始めていた。
五つが、四つと一つに分かれて、一つが崖沿いに動いている。回り道を探している。
「ミア。入るか、逃げるか」
「……逃げても足がこれ」
「じゃあ」
「許可なしに入ったら、マスターに怒られる」
「あとで謝る」
門をくぐった。
門の内側は、斜めに下る石の坂だった。
坂の壁に埋まった石が、青白く光っている。魔石だとミアが言った。壁全体が弱い魔石でできている。
坂を下りきると、床が平らになった。
石の廊下が真っ直ぐ奥へ続いている。天井は高い。壁の光は廊下の奥まで届いて、その先で途切れていた。
足音が響いた。
奥から別の足音が返ってきた。
四つ足。
気配察知に三つ。
「来る」
ミアを壁際に降ろした。
ミアは座ったまま弓を構えた。
廊下の奥から出てきたのは犬だった。
犬の形をした黒い影。目だけが壁の魔石と同じ青白い色で光っている。
「影犬」
ミアが言った。
「遺構の魔物。上層のやつ。……上層でこれなの」
一匹目が跳んだ。
剣術Lv6の体は犬を犬と思わなかった。
着地の一瞬、首を横に払った。
影が散った。
死体がなかった。黒い霧になって消えた。
残ったのは拳ほどの魔石が一つ。
【影犬を討伐しました】
【経験値 +150】
「150」
「言ってる場合か」
二匹目、三匹目。同時に来た。
一匹はミアの矢。もう一匹は俺の剣。
【影犬を討伐しました】
【影犬を討伐しました】
【経験値 +300】
【レベルアップ】Lv7 → Lv8
【SP +1】(所持SP:1)
「三匹でゴブリン三十匹分」
「遺構だから。奥はもっと」
ステータスを開いた。
所持SP:1。
散らす、はもう終わった。ユーリに全部見られた。隠す相手がいない。
剣術のところを押した。
【スキル:剣術】
現在 Lv6 → Lv7
必要SP:1
効果:剣を扱う際の身体制御が向上する
押した。
【スキル『剣術』Lv6 → Lv7】(消費SP:1/残りSP:0)
剣聖と同じ段。
王国で誰も届いていない場所に、Lv8の体で立った。
体の中で噛み合ったものは、もう「噛み合う」って言葉じゃ足りなかった。
剣が腕の続きになった。
「……レン。今、上げたでしょ」
「7」
ミアは何も言わなかった。
ただ弓を握り直した。
廊下の奥に下へ降りる階段が見えた。
壁の魔石の光が階段の途中で途切れている。その先は本当の闇だった。
入口の方から松明の光が差し込んだ。
「――遺構、だと」
ヴェルナーの声が石の廊下に響いた。
「ここに、まだあったのか」
知らなかったのだ。監察官も知らなかった。
ミアを背負い直した。
階段を降りた。




