第一話 目覚め
風の音で目が覚めた。
草の匂い。土の湿り気。頬に当たる日差しの暖かさ。
上体を起こすと、視界いっぱいに草原が広がっていた。
遠くに、黒い森の縁が見える。反対側には、なだらかな丘。その先に、薄く煙が上がっている。
人里だ。
「……本当に、来たのか」
自分の声が、少し高かった。
手を見る。指が細い。
倉庫で荷物を運び続けて、ごつくなったはずの手が、まるで高校生の手だ。
腕をさすってみる。若い。肌に張りがある。
立ち上がってみる。
軽い。
体が、驚くほど軽い。腰の重さがない。九時間立ったあとの、足の裏の鈍い痛みもない。
「……おお」
思わず、その場で跳ねた。
二回、三回。
笑いが漏れた。
二十六年つき合った体が、こんなに重かったなんて、知らなかった。
「ステータス」
ゲームの主人公が言う言葉を、半分冗談で口にした。
目の前に、半透明の窓が開いた。
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【ステータス】
名前:レン
Lv:1
HP:42/42 MP:18/18
筋力:9 体力:10 敏捷:11 魔力:8
所持SP:0
ギフト:―
スキル:なし
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「出た……」
思わず声が漏れた。
ゲームでしか見たことのない画面が、本当に、自分の目の前に浮かんでいる。指で触ると、ふわりと揺れた。
名前は『レン』になっている。名字は消えたらしい。
数字の意味は分からない。9が高いのか低いのかも分からない。
ただ、ギフトの欄の横線だけは、はっきり分かった。
「本当にハズレなんだな……」
分かってはいたが、こうして自分のステータスに刻まれると、少しへこむ。
気を取り直して、周りを見た。
草の上に、革の胸当てと、鞘に収まった剣、それから麻の袋が置いてある。
袋の中身は、革の水袋と、固いパンが三つ、銀貨が五枚。女神の言っていた『お詫びの標準セット』だ。
剣を抜いてみる。
刃渡り七十センチほどの、装飾のない鉄の剣。
「……重っ」
片手では、切っ先が下がる。両手で握ってようやく水平になる。
振ってみた。
風を切る音は、しなかった。剣が、俺の腕を引っ張っていく感じ。
「これ、振れるのか?」
倉庫でカゴ台車を押していた腕なら、もう少しましだったかもしれない。今の細い腕には、明らかに持て余す。
まあ、街に着けば、誰かに教えてもらえるだろう。
胸当てを着けて、剣を腰に差した。
パンを一つかじる。固い。でも、うまい。
「……よし」
煙の方に向かって、歩き出した。
草原は、思ったより広かった。
丘は、近く見えて、なかなか近づかない。
風が気持ちいい。空が高い。
知らない鳥が、知らない声で鳴いている。
(異世界、なんだよな)
歩きながら、じわじわと実感が湧いてきた。
死んだのは、事実だ。でも、こうして歩いている。若い体で、剣を差して、知らない空の下を。
なんだかんだで、悪くない。
そう思った。
森の縁で、草が揺れた。
風じゃない。
低い位置で、何かが動いた。
俺は、足を止めた。
草の中から、緑色の、子どもくらいの背丈の何かが、出てきた。
尖った耳。黄色い目。剥き出しの歯。手には、木を削っただけの棍棒。
ゴブリンだ。
説明されなくても分かった。俺が知っている、ゲームのゴブリンそのものだ。
距離は、三十メートルくらい。
向こうは、まだこっちに気づいていない。地面を嗅いで、何かを探している。
(……やり過ごせるのか)
息を殺した。
一歩、後ろに下がる。
もう一歩。
足の下で、乾いた枝が、鳴った。
ゴブリンの顔が、上がった。
黄色い目が、俺を見た。
「ギィ」
声が、した。
背中の草の中から、二匹目が、出てきた。
「……マジかよ」
心臓が、一気に跳ね上がった。
さっきまで『異世界、悪くない』と浮かれていた自分が、遠くに感じる。
あれは絵じゃない。目が合っている。歯を剥いて、涎を垂らしている。
二匹が、同時に走り出した。
速い。
俺は、逃げた。
迷わなかった。丘に向かって、全力で走った。
足は、動いた。
九時間立ちっぱなしの足だ。走るのは得意じゃないが、持久力だけはある。
「はっ、はっ、はっ――」
背後で、草を踏み散らす音が、追ってくる。
振り返らなかった。振り返ったら、遅くなる。
丘の斜面が、目の前に迫る。
上れ。上って、向こう側に――
足首に、何かが引っかかった。
木の根だった。
視界が、回った。
草と土と空が、ぐちゃぐちゃに混ざって、俺は、斜面に転がった。
「っ、が――」
息が止まる。
起き上がろうとした背中に、鈍い衝撃。
「ぐっ……!」
棍棒だった。
視界の端で、数字が減る。
HP:42 → 31。
振り向いた俺の目の前に、黄色い目があった。
二匹。
息が、臭い。
逃げ切れなかった。




