『あれ』がない案件
執務室は、何も考える余裕がないほどにざわめいていた。
こういう時に入電が続くと、余計なことを考えずに、仕事に集中していられる。
(——今日は、フリーデハイムの名前を聞かないな)
柊花は、いつも聞き慣れた建物名を聞かないと、逆に何かあるのではないかと感じた。
島角の席に座る鈴村も、今日は心なしか穏やかな表情をしている。
そういう日もあると柊花は仕事に1件1件集中しながら、合間にコーヒーを口に含んでいた。
(――他の案件だと、『あれ』がない)
柊花は違和感が少しずつ輪郭を帯びていることに気づく。
浅見名義の得体のしれない履歴が、ないのだ。
それは、何を語っているのか、フリーデハイムだけに何かあるのか、まだ掴めなかった。
他の案件には浅見が退職してからも何事もない。
浮かんでくる違和感、疑念がない。ただ、ひとりひとりに向き合い、合った助けを届ける。
柊花はキーボードに指をすべらせる。
『鈴村さん、浅見さん名義の履歴って、フリーデハイム以外にも出てますか?』
PCを操作し、調査しているのだろうか。
鈴村の視線が、複数のモニターを交互に見比べ、ぴくりと眉が上がる。
少し間があいて文字が返ってきた。
『いいえ……出ていません。フリーデハイムだけです。他は浅見さんが在職中のものだけですね』
やはりかと柊花が頷く。だとしたら、あの履歴は何を照らしているのだろうか。
次第に、足元を照らす松明のように導いているような、浅見名義の不自然な履歴。
執務中のぴんとしたざわめきの中、急に鈴村が立ち上がる。
社用のスマートフォンを手に、慌てたように執務室を出ていく。
声の主は、藤村だった。掠れた声に、相当な疲弊が感じられる。
「——藤村です。フリーデハイムの件で、今お話しよろしいですか?」
「何か、進展ありました?」
「フリーデハイムに赴き、現地確認をしました。迷惑駐車も、共用部の私的利用も確認しています。ただ……上に報告しても、動かせません」
――管理会社でも動けない建物?
鈴村の背にひんやりとしたものが伝う。藤村の話の背後にあるものを手に取るように感じ取れた。
一拍置いて、「承知しました。ありがとうございます」と返し、電話を切る。
スマートフォンを持つ手が、震えて止まらない。
フリーデハイムには、誰も触れることができないのだろうか。管理会社の手が止まるくらいの、何かが。
何者かの存在に鈴村は一瞬、ぞくりとしたものを感じる。
こわばった表情を悟られないよう、至って平静を装い、執務室へ戻ると波を越えたのか、しんとしていた。
——そういえばそろそろ、日勤は終わりか。
夜勤担当者がちらほら出勤してくる。メンバーも、夕方の景色だ。
それと入れ替わるように、日勤担当者がちらほら退勤していく。
夜勤の管理者へ、引き継ぎ事項を残し、鈴村もパソコンの周囲をゆっくりと整理する。
引き継ぎ漏れはないか、再度ファイルやチャットを確認し、履歴の不備があれば個別にチャットを飛ばす。
最後の対応が終わり、柊花もふぅ、と深くため息をつく。
こういう日は、逆に珍しい。最近はあるはずのないものばかり見ていた気がする。
確実に目の前にあるものだけを見ていた日は、本当に久しぶりだった。
柊花は手を組み、上へと伸びをする。
そして、頷き、パソコンをログアウトし、執務室のドアの横へ社員証をかざす。
ピッと音がし、鍵の開く音がすると重い扉を開け、ロッカー室へ出ると、曇った顔の鈴村がいた。
「鈴村さん、今日は上がりですか?」
「はい」
「よかったら、コーヒーでも飲んで帰りません? 最近色々ありすぎですし」
少し間をおいて、鈴村が軽く頷く。
「——いいですよ。行きましょうか」
夕暮れの茜色が薄っすらと宵闇に変わろうとしている。外には街明かりと、行き交う人々が波のようだ。
「駅裏のカフェに行きましょうか。駅前のところは、混んでますし——静かなところで、飲みましょ」
柊花が僅かに微笑む。
ぬめっとした空気があたりを包んでいる街を、ふたりは駅裏の方角へ向かって歩いていた。
駅裏のカフェは、夕方からはアルコールも頼める。
「……なんかこういうスカッとしない日は、コーヒーというよりカルーアミルクが飲みたいです」
「僕もそう思う」
ふっとこれまでを一度振り払うように柊花と鈴村は笑う。
運ばれてきたカルーアミルクを飲みながら、鈴村は、疲弊した藤村の電話の意味を考えていた。
動こうとすれば圧力がかかるマンション、そして、そこにしか現れない松明のような履歴の意味を。
「——浅見さんは、会社に何を残して辞めたんだろう」
柊花がふと呟く。
「深野さん、明日からしばらく、僕を手伝ってくれませんか? 松明のことが——なにか掴めそうなんです」
「……わかりました」
鈴村は、業務の合間に浅見名義の履歴について調べていた。
その履歴は、どのアカウントに紐づいているのか。ログは残っているのか。
調べれば調べるほど、霧の中に入っていくような感覚。
それは、どこかに浮かぶ空を掴むような声だったのかもしれない。
柊花と鈴村は、静かにカルーアミルクをゆっくりと口に含み、背後にただジャズミュージックが流れていた。




