フリーデ《平和》の皮肉
藤村が足を踏み入れた瞬間、歪んだ空気が建物から伝わってきた。
エントランスに停められている黒い高級車、ベランダ側からは肉の焦げたような匂いが鼻につく。
403号室宛ての集合ポストは何者かが書いた紙で埋め尽くされ、エレベーターの前にはタバコの焦げた痕。
エレベーターの内部はところどころ汚れ、騒音の注意喚起の張り紙がビリビリと破られている。
藤村はまず4階へ行き、403号室のドアポストを見ると、やはり何者かによって紙で埋め尽くされており、わざとらしくタバコの吸殻が捨ててある。
念のため、彼はカメラでそれぞれ写真を残した。あえて社用ではない私物のスマートフォンで。
「藤村くん、フリーデハイムに余計なことはするな。特に402号室と303号室には。オーナー様にご迷惑がかかる。言いたいことはわかるね?」
上司の声が藤村の脳内にこだまする。
402号室——蘇芳 咲奈は、オーナーのご息女。会社の上層部はオーナーの蘇芳 由樹には逆らえないのだ。
恋人である303号室の都賀 脩人と組んで迷惑行為を度々起こしているが、揉め事を避ける会社は見ないふりをする。影で握りつぶしている。
リコリスコーポレーションから電話がかかってくるたび、藤村は自分の無力さを嫌というほど思い知らされるのだ。特にフリーデハイムの件では。
階段で3階へ降りる。廊下には煙草と何かが混じったような甘ったるい香りが藤村の鼻腔を撫でる。
301号室の扉がそっと開く。
「藤村さん、ちょっと——」
中から入居者の折笠夫妻の声がする。70代くらいの温和な老夫婦だ。
招かれるまま玄関口に入ると、夫妻は声を潜めて告げた。まるで、外には漏れてはならないというように。
「303号室の若者、あれはなんとかならんかねぇ……車を好き放題に止めて、騒いで。昨日私も注意したんだが「大家の娘がいいと言った」と凄まれてね」
折笠が肩をすくめる。折笠の妻も、続けて呟く。
「402号室の女の子もよ。あの子が大家さんの娘というのは知っていますけど……藤村さんに言うのも心苦しいのだけど、なんとかしてもらえないかしら……まぁ、ここの大家さんは、ねぇ……」
一拍置いて、藤村が深く頭を下げ、声を落とす。
「本当に、申し訳……ありません。なんとか……しますので」
静かに301号室から退出すると、303号室の前に男が立っている——都賀だ。
都賀は不敵な笑みを浮かべ、甘ったるい匂いを漂わせながら、ゆっくりと近づいてきた。
「管理会社さん、また来たんですか——何度来ても、無駄ですよ」
「都賀さん、無断駐車だけはやめてもらえますか? ちゃんと駐車場の契約を——」
その瞬間、都賀の笑みが歪み、低い声でこちらを射抜く。
「俺と咲奈に意見していいんですかね? ちゃんと許可取ってます。なぁ、咲奈?」
303号室の扉から一見品のある女性が姿を見せる——402号室の蘇芳咲奈だ。
しかし、彼女も歪んだ笑みを貼りつけ、やわらかくも冷徹に吐き捨てる。
「ええ、オーナーである私の父と、その娘の私が許可をしておりますので。そして、父に伝えておきます。管理会社さんがずいぶん熱心に見回りに来てくださったって」
藤村は僅かに唇を噛みしめる。
僅かに微笑み、あくまで忠告と言った口調で咲奈は釘を刺すように告げた。
「あと、会社に報告しても無駄ですよ? おたくは父に逆らえませんから」
そう言い捨てて、「父に伝えておきますので」と咲奈が言い含め、都賀が薄く口角を上げ303号室へ消えていった。
藤村は深呼吸をし、一度4階へ戻る。少しだけ403号室の扉が開き、手だけがちょい、ちょい、と招いている。
「——倉橋さん」
「あの人達が下にいるのは音でわかります。これ、ドアの分だけですが取っておきました。会社に見つからないように、写真を——」
藤村は頷き、中へ入り手紙を1枚1枚写真に収め、バックアップも取る。
「藤村さん、いつもご迷惑をおかけしてすみません。私ができるのはこのくらいしかないので……」
「いえ、ご迷惑をおかけしているのはこちらです。玄関前の吸い殻も、回収しておきますね」
「私が報告したばかりに、こんなことになってしまって……」
倉橋の言葉に、藤村は首を振る。
「いいんですよ。——本来は、こちらの仕事なので。本当に……申し訳ありません」
「あの人達に気づかれないように行ったほうがいいと思います」
一礼し、藤村は403号室の前から立ち去る。
階下から、咲奈の声が漏れ聞こえる。
「お父様? マンションに管理会社さんがいらしているの。とても熱心に見回ってくださっているわ。安心ね。これほどまでに熱心に管理してくださるなんて」
——気づかれているか。
会社からの叱咤など、もう慣れている。また上から注意が入るだろう。
藤村の手に力がこもる。
マンションを出ようとした時、藤村の社用スマートフォンが鳴る。
「——藤村くん。フリーデハイムに行っているようだね? 何度も言いたくない。余計なことをするな」
「承知いたしました。申し訳ございません」
無法地帯になっているここを見て見ぬふりし、握りつぶす組織。上司の声も、どこか遠くに聞こえる。
ただ、機械のように返答し、藤村は電話を切る。
エントランスの前に停めてある都賀の黒い高級車が妖しく光る。
藤村は眉間に皺を寄せ、深く息を吐いた。
会社へ戻ると、上司の冷たい視線が藤村を貫く。
これ以上余計なことをするなと目が告げている。
藤村は、倉橋から受け取った紙を写真に残したことを確認し、紙だけをシュレッダーにかけた。
会社に見つかれば、今度こそ握りつぶされる。そう思ったからだった。




