虎の威を借る男
その日は、やけに静かだった。
(どうか今日は、フリーデハイムじゃありませんように)
しかし、柊花も含め、皆「静かな時はたいてい面倒になりがち」と身にしみて理解している。
電話システムの着信音が鳴らないことを祈りながら、柊花は手元のメモ帳に落書きをし、暇をつぶす。
その時、静寂を破るように着信音が鳴る。こころなしかいつもより、それは歪な音に聞こえた。
柊花は、さっとヘッドセットを整え、応答ボタンをクリックする。
立ち上がる履歴入力画面を見て察する。——フリーデハイム。
電話の主は、焦燥した声の年配の女性だった。
「折笠 小春と申します。住所は——」
「次に、建物名をお伺いしてもよろしいでしょうか」
折笠と名乗る女性は一瞬躊躇った。
「——フリーデハイム301号室です」
柊花の脳裏に「やはり」という文字が思い浮かび、心の中でため息が出る。
「フリーデハイムの駐車場に、毎日、契約していない車が停められているんです。それで、困っていて……」
「いつ頃からでしょうか?」
「いつだったかしら……急に黒い高そうな大きな車が停まるようになったの。駐車場だけでなく、マンションの入口を塞いでいたり。とにかく毎日酷くて」
女性の相談内容に、柊花はもしや、と思い当たる節があった。しかし確定ではない。
電話の向こうで一息つく声がし、女性は話を続ける。
「一度、うちの主人が車の主が降りてくるところにばったり会って。注意をしたら「ここの住人だし、それに大家の娘がいいって言ってるんだからいいんだよ!」って、凄まれたそうなの」
たちが悪い。虎の威を借る狐どころの話ではない。
柊花は手元のキーボードを急いで走らせる。
『またフリーデハイムです。迷惑駐車。黒い高級車がマンションの駐車場やあちこちに停められているそうです』
女性の話を聞きながら、鈴村にチャットで報告をする。
すぐさま鈴村から返信が戻ってくる。
『これは僕の予想だけど、繋がってる気がする。話が終わったら僕のところへ』
電話口の女性は、最後にこう話していた。
「あと……最近、その車の持ち主と若い女性が廊下で騒いだり、ベランダでバーベキューをしていたりで困っているの。お願いね。車の持ち主はうちの2軒隣。303号室よ」
303号室。
柊花の指が、キーボードの上で止まった。
(やっぱり、303号室か……! どの口が騒音だって? 逆じゃない)
柊花の脳裏に先日のぬちゃっとした棘のある話し方の男性の声がこだまする。振り払うように柊花は首を振るう。
対応履歴を保存し、関連履歴を開いた瞬間、柊花の背筋が冷えた。
また『いつもの』が増えていた。
【2026/6/10 3:15 303号室の迷惑駐車と共用部に関する苦情多数あり。402号室が関連している可能性あり。精査が必要。 入力者:浅見 梓】
浅見名義の履歴は、次第に履歴というより松明のように一歩先を照らすものに変化しているようにも感じられた。
まるで、「こっちだよ」と告げるように。
「やっぱり、ですね」
後ろから突然、鈴村が声を落とす。
柊花はびくりとし、振り向き、そして、画面を指さす。
「入電は301号室です。303号室の迷惑駐車や一連の迷惑行為。そして——浅見さんの履歴があります」
「やっぱり……繋がってる」
「ですよね……」
鈴村と柊花はまた一歩、このマンションを包む黒い霧の中へ足を踏み入れた。
『フリーデ』は、ドイツ語で平和を意味する。
その名が、今はひどく皮肉に思えた。
鈴村は肩を落とし、席に戻る。その表情は、僅かに苦々しい。
管理者画面で浅見の履歴の時刻に入電がないか目を通す。
だが、いつもの通り、何もない。
——藤村さんに報告する以外、こちらでもできることは、ない。
鈴村は深く、静かにため息をつき、社用のスマートフォンを手に取る。
「——はい、藤村です」
「リコリスコーポレーションの鈴村です。フリーデハイムの件で、お話よろしいですか?」
電話口から、藤村の疲弊の色が手に取るように伝わる。
「——もしかして、303号室か、402号室、ですか?」
「ええ……303号室の迷惑駐車と共用部の私物化の件です」
藤村が、力なく呟く。
「そう、ですよね……」
「藤村さん、何かご存知なのですか?」
藤村の声から、さらに力が抜けていく様子が伝わる。
「実は、昨日私の方でフリーデハイムへ足を運びまして、現地を確認しました」
「と、申しますと?」
「迷惑駐車も、現地にて確かに確認しました。入居者様とお話もさせていただいたのですが……」
鈴村は、彼の言いたいことはだいたい察した。先日の藤村の話を思い出し、呟く。
「やはり、あの2部屋は——」
「仰るとおりです……」
鈴村と電話の向こうの藤村との間に重い空気が流れる。
時間の流れがどこか違う、現実から切り離されたような。ただ、無力感だけが互いを包む。
鈴村の空いた片方の手が固く結ばれ、震えている。
——結局、仕事の範囲では、無力じゃないか。
「藤村さん、申し訳ないのですが、引き続き対応お願いいたします」
「承知しました」
互いの声が、組織の無力さに震えている。
電話を終えた鈴村は、席を立ち、休憩室へ向かう。
自動販売機でコーヒーのボタンを押す。
ボトルを開け、一気にそれを流し込んだ。
そして、何事もなかったかのように席へ戻り、パソコンへ向かう。
『大丈夫ですか?』
柊花からチャットがくる。
鈴村は画面越しに柊花を見て、小さく頷いた。
大丈夫だ、と言う代わりに。
けれど、柊花の肩は震えていた。




