嵐の前の静けさ
その日は、始業前から妙に静かだった。嵐の前の静けさ、という言葉が柊花の頭をよぎるほどに。
柊花は水を打ったように静かな執務室で時計とモニターを交互に見て、ふぅ、とため息をついた。
(こういう時は、だいたい嫌な予感のほうが当たるのよね)
彼女は落ち着かず手元のメモ帳にぐるぐると落書きをしつつ、机に置いたコンビニコーヒーを一口飲む。
視界の隅で、島角の席にいる鈴村がいつもより眉をひそめ、険しい顔をしている。いつもは軽快なタイピング音が、今日はひとつひとつ重く響いていた。
「今日、暇ね。——嫌な予感がする」
柊花の隣の席から囁くように、先輩である稲嶺千里が声をかけてきた。稲嶺は謎の履歴の主、浅見の同期で三十代後半の赤い縁の眼鏡をかけている女性だ。
稲嶺は、きょろきょろと左右を見て、続ける。
「最近、なんか履歴が変じゃない?」
「稲嶺さんも、見たんですか? ……深夜の浅見さんの履歴」
「彼女の最終出勤日、私いたもの。手続きしているのも見た。その後も彼女の履歴が増えてる。しかも日勤の彼女が——深夜に」
稲嶺が、頷き、視線を机に落とす。
「彼女——退職前に憤ってた」
「憤ってた——?」
その瞬間、しんとした執務室に水面の波紋のようなざわめきが広がり、一気に空気が張り詰める。
「お待たせいたしました——」
柊花が言葉を発するよりも前に、ヘッドセットから神経質そうな、しかし震えた女性の声が鼓膜を突き抜ける。
「フリーデハイム405号室の下條と申します。隣の部屋の前で、ずっと話し込んでいる人がいまして、あれ、何とかしていただけない?」
(フリーデハイム、か。この間の話と関係がありそう。鈴村さんにチャット送っておこう)
電話の女性——下條の話を聞きつつ、柊花は社内チャットで鈴村へメッセージを送る。
『鈴村さん、またフリーデハイムです。405号室』
鈴村がちらりとこちらを見、キーボードの上に指を走らせる。
『話を聞いて、あと、終わったら履歴画面を見せて』
『承知しました』
電話のシステムと連動している履歴画面には、またかというか、やはりというか——浅見の履歴がありえない日時で残されている。
【2026/6/8 2:08 お客様はまだ満足されていないご様子。ただの騒音事件ではないと思われますが、騒音事件として管理側へシステム報告。 入力者:浅見 梓】
それを見た柊花は首を傾げる。「退職前に憤っていた」という稲嶺の言葉も気にかかる。確かに、電話の向こうの状態に突っ込まず、粛々と手順通りに処理するのが規則だ。しかし、電話の向こうは、人である。時折、無力感に襲われる。
下條は話を続ける。
「初めは管理会社の方かと思っていたんです。部屋番号を確認する男性の声と、女の人の謝る声がして、でも、話が何か違うなって……感じました。同じ階……402の方は403に住まわれているのは男性だと仰るんです。しかし、出てきたのは、女性で——他の方が言われるような騒音は、私の部屋には……しないんです。何か、ドアの前の話を聞いていて、怖くなって」
下條の話を聞き、柊花はフリーデハイムの一連の履歴を遡る。初めは403号室の、住人の『女性』から。下の階に住むという『男性』がいきなり訪ねてきた。怖いと仰せ。そう書かれている。
次の履歴。403号室。女性。下の階に住むという男性が402号室の女性を訪ねてきて、大声を出して話していた。ひと晩続いたので、報告した。
その次、403号室の『女性』。ドアや郵便受けに不審な手紙が届いている。差出人不明。
——ここまでが浅見が在職時に書いた履歴だった。
その後入ってきた他の部屋からの入電履歴と、齟齬がある。402号室と、303号室。
(——そもそも、403号室からの騒音を訴えているのは、402と、303だけ。他の部屋からは、むしろその2部屋に対する苦情が多い)
電話の向こうは、顔が見えない。しかし、向こうにこそ真実と事情がある。生活がある。
柊花は、鈴村以外の島角の席の面々をぐるりと見回す。面倒くさそうにエスカレーションを拒否してネイルを眺めている女性、拒否され、涙ながらに対応する同僚。恐らく、上席対応の方がよい案件だ。
また別の島角の管理者の男性は、人当たりはいいが、その場しのぎの指示しかしない。履歴にも気がつかないだろう。
柊花は一息つき、履歴のスクリーンショットを撮り、鈴村へチャットを送る。
『履歴をまとめました。履歴に齟齬があります。浅見さんが在職されていた時、403号室からの相談を受けているようです。そして、浅見さんの退職後の履歴もまたあります。鈴村さんも、確認お願いします』
チャットを受け取った鈴村は、管理者権限でシステムを見る。そして、天井を一瞬仰ぎ、視線を戻す。
——402号室と303号室だけは403号室入居者を男性と言い張る。しかし、女性として記録が残されている。履歴とこの2部屋のどちらかが、嘘をついている……?
「なぜここまでしてしまうのだろう」と鈴村は思う。他の管理者のようにその場限りの判断をしたほうが、問題は起こらない。しかし、電話の向こうの相手は……?
机上の栄養ドリンクを一飲みし、モニターで浅見の退職後に書かれた履歴の入電記録を確認する。——しかし、示された結果を見て、鈴村は息を呑む。
入電は、入っていない。
浅見のアカウントも、間違いなく削除されている。誰が、浅見の名で履歴を書けるのか。何のために——?
すかさず柊花にチャットを送る。
『僕の方から物件担当の藤村さんへ連絡します。あと、フリーデハイムの件は僕に連携するよう、周知します。対応ありがとうございます、深野さん』
柊花の目が、一瞬丸くなるのが見えた。その瞳は、受け取ってくれた安堵と信頼の色を宿していた。
鈴村は、深呼吸して藤村へ連絡する。
「お世話になっております。リコリスコーポレーションの鈴村です。先日、弊社の深野がお伝えしたフリーデハイムの件ですが——」
「403号室の件、ですよね……?」
「ええ。あの後、再度405号室から入電があり、弊社で履歴を確認したところ……履歴に齟齬がございまして、303号室と402号室の話と、他室の話が異なっておりました。403号室の入居者様は」
「……女性です。少なくとも、弊社の契約情報上は」
「では、303号室と、402号室の入居者様は、なぜ男性と言っているのでしょうか?」
電話の向こうで、藤村が言葉を濁す。
「それは……こちらでも、以前から少し」
「承知しました。それでは、ご対応のほどよろしくお願いいたします」
電話の向こうから『深入りしたくない』というオーラがひしひしと伝わってくる。
——そうだよな、誰だって介入はしたくない。しかし、それでは解決しない。
鈴村はそう呟き、柊花に頼まれた履歴を再度確認する。やはりというか、履歴が更新されている。本来なら『あるはずのない』履歴が。
——やっぱり、浅見さんの名前で更新されている。ありえない時刻とタイミングで。
モニターには、その『あるはずのないもの』が確かに記録され、灯っていた。
【2026/6/8 2:55 403号室の入居者様は女性。過去にも確認済み。騒音の訴えは、誰も廊下を見ていない、確認していない。 入力者:浅見 梓】




