見なかったことにはできない
執務室前方、鈴村と大峰の間には凍りついた空気が流れていた。
ドアの開く音がし、センター長の鳥海が入り、周囲を見渡す。
大峰は、ぎゅっと口を結び、視線を落としたまま、沈黙している。
前方のふたりを見て、鳥海は察する。彼らが言い合うのはおそらくあの件しかないからだ。
鳥海は、ふたりに声をかける。
「大峰くん、鈴村くん。……そして深野さん。会議室へ行きましょう」
執務室の少し奥にいた柊花も頷き、席を立ち、鳥海たちへついていく。
(鳥海さんも——ある程度知っていた、ってことだよね?)
執務室から少し離れた白塗りの会議室に、四人は集まる。
鳥海と大峰、鈴村と柊花が分かれてそれぞれ席につく。
ぴんと何重にも張り詰めた空気が、白塗りの部屋を包む。彼らの表情は、どこか暗い。
沈黙を破り、鈴村が再度押し殺したような声で、大峰に問う。
「——大峰さん。浅見さんの名義で履歴を残したのは、あなたですか」
大峰の瞳が僅かに揺れ、視線を下に向けて、彼は声を落とした。
「……ええ、僕です」
鳥海が、ゆっくりと大峰に視線を移す。
しかし、鳥海は、彼がやった理由もわかる気がした。
以前は、彼が誰よりも人の声に寄り添おうとしていた人物だということを、知っているからだ。
鳥海は、静かに尋ねる。
「大峰くん。——君はなぜ、そこまでしたのか?」
大峰は、視線を遠く正面を見るように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「浅見さんの引き継ぎメモ、あれには対応するうえで重要なことが書かれていた——しかし、誰も読まなかった」
彼は自嘲するように、声を落とす。
「僕の名前で残しても——ただの管理者メモとして流されてしまう」
そして、視線を鈴村と柊花、交互に向け、話を続ける。
「浅見さんの名前なら、鈴村くんが必ず拾うと思った。そして——深野さん、あなたなら履歴の向こうにいる人を見ると、そう思ったのです」
柊花は視線を落とし、震える肩を隠すように、姿勢を正す。
言葉を聞き、鈴村が低く震えた声をあげる。手元では、握られた拳も震えていた。
「——だからって、浅見さんの名前を使っていい理由にはなりません!」
大峰は、視線を落とし静かに頷く。
「僕のしたことは、許されることではありません。——でも、あの名前でなければ、誰も見なかった。声に、気が付かなかった」
大峰の瞳と声が、震えている。話し終えた唇は、ぎゅっと噛み締められている。
鳥海が三人をぐるりと見渡し、静かに頷き、大峰に告げる。
「大峰くん、君がやったことは、正しくない。だが——君が見ていたものを、見なかったことにはできない」
そして、鳥海は静かに続ける。
「この件は——上に報告はしません。報告すれば、大峰くんだけが処分され、フリーデハイムの声は『担当者の不正』として片付けられる。声が、なかったことになってしまう」
そして、鳥海は手元のノートパソコンを操作する。
仮想システムの権限停止申請。
システム部へ、仮想端末と旧システムの連携廃止依頼。
「保守用仮想端末の権限を、停止し、旧システムとの連携の廃止申請を出します。しかし、フリーデハイムの履歴はそのまま残します」
しばらく、鳥海がノートパソコンをカタカタと操作する音だけが響き、沈黙が会議室を包む。
タン、と最後の音を立てて、鳥海は軽く頷く。
操作の手を止め、鳥海は顔を上げて、告げる。
「本件は、センター内で処理します。不要に外へ広げれば、また声が潰される。だが、記録は消さない。再発防止も、私の責任で進めます」
鈴村が、静かに声を上げる。
「浅見さんには、どう説明するんですか」
一瞬、沈黙の後、大峰が鈴村の方を向く。
「——僕が、彼女に説明し、謝罪します」
鳥海は頷く。
「……それも、君の責任だ」
会議室に静かな空気が流れる。静かな断罪というより、処理。
その後、四人はそれぞれ席を立ち、退室する大峰に、鈴村は言う。
「大峰さん、あなたの教え「電話の向こうは案件ではない、人だ」って言葉、僕にも、深野さんにも、伝わっています。もちろん、浅見さんにも」
大峰は震えた肩で頷く。
そして、それぞれ静かに執務室へ戻っていく。
窓から差し込む光がまっすぐに周囲を照らしていた。
それから、退勤時間まで柊花と鈴村も、何も言葉にできなかった。
ただ、静かに通話の声の波が執務室を包んでいた。
窓の外が茜色に染まる頃、退勤した柊花はロッカー室で梓にメッセージを送る。
『浅見さん、こちらは全部、終わりましたよ』
ピコン、と梓のスマートフォンの通知音が鳴る。
柊花から送られたメッセージを見て、ちょうど警察署で被害届の相談を終えたところだった梓と朱音は、微笑む。
梓が「倉橋さん、ちょっとごめんね!」と申し訳無さそうな顔をし、メッセージを返す。
『さっき、大峰さんから電話が来た。びっくりしたよ。まさかって思った!』
ロッカールームで、返信を見た柊花はふっと苦笑いと安堵がないまぜになった表情をする。
ふと横を見ると、複雑そうな顔をした鈴村がいた。
「鈴村さん、今日夕飯どうですか? ——解決祝いといっては、なんですけど」
鈴村が柊花の方を見てふっと笑う。
「そうですね。行きましょうか——解決祝い」
ふたりは茜色から宵闇に変わろうとしている雑踏に踏み出していった。
柊花は空気がこころなしか久しぶりに軽く思える。
——その日を境に、浅見梓の名で履歴が増えることは、二度となかった。




