夜が静かなんです
あれから数週間が経った。有給の消化を終え、アルフェリアホームを退職した藤村は、梓の元を訪れた。
「有給消化が終わって、正式に退職しました。——もう、握りつぶす側には戻りたくないので」
藤村の顔は、憑き物が取れたかのようにふっと柔らかな表情を見せていた。
梓と朱音が警察に相談へ行ったあと、アルフェリアホームにも被害の再申し入れをした。
「警察に行った」という言葉が効いたのか、その後、オーナーの蘇芳市議から多額の金が朱音に支払われた。
謝罪でもなく、むしろ口止めに近い。
しかし、朱音はそれを使い、フリーデハイムを後にした。
梓は、朱音に尋ねる。
「倉橋さんは、それでよかったの? 訴えることもできたのに」
「……あそこから出ることができれば、それでいい。そう思いました」
藤村はぽつりと言う。
「警察に行ったことで、不祥事が表沙汰になることを恐れたのでしょう。——303号室も、いつの間にか退去されていました」
都賀が退去した後、402号室の蘇芳 咲奈も打って変わって大人しくなり、ひっそりと暮らしているという。
高級車も見なくなり、一見平和が戻ったかのように見えるが、蘇芳の思惑は、結局わからない。
「あ、コールセンターにも、報告をしないと」
と、朱音はスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
リコリスコーポレーション、コールセンター執務室。
あれから不審な浅見名義の履歴が増えることもなくなり、いつもの朝の空気が流れていた。
いつも冷徹な眼差しをしていた大峰は少し柔らかな表情をするようになった。
そして、朝礼の空気が、変わった。
いつもピリッとした大峰の言葉が、やわらかさを含むようになった。
「対応に時間をかけすぎないように。……ただし、必要な声は拾ってください。電話の向こうはただの案件ではありません。『人』がいます」
それを聞いて、執務室が僅かにざわめく。
しかし、柊花と鈴村は、ふっと微笑んでいた。
そして、鳥海が締める。
「時間も意識して、しかし、電話の向こうの人も意識して、寄り添った対応をお願いします——以上」
その声は、どこかふっと解けていた。
その言葉のあと、鳴り始める着信音。それはいつもと変わらないようで、どこか違って聞こえた。
柊花が電話を取ると、聞き覚えのある声がした。
「フリーデハイム403号室に住んでいた、倉橋朱音と申します」
朱音の声は、もう震えてはいなかった。
「引っ越しが終わりました。——夜が、静かなんです。それが、こんなに安心することなんて、忘れていました」
柊花は、安堵の表情を見せ「それは、よかったです。ご連絡ありがとうございます!」と柔らかな声で締める。
電話が切れたあと、頷き、キーボードに指を走らせる。
浅見名義ではなく、柊花自身でピリオドを打つように履歴に残す。
【2026/06/29 10:58 403号室・倉橋様より入電。転居完了のご連絡あり。夜が静かで安心して眠れたとのこと。対応者:深野 柊花】
カチ、と履歴送信ボタンをクリックし終え、柊花はふぅ、とひとつ息をする。
そして、伸びをする。
これはひとつの案件の終焉だ。それでも電話の向こうでひとりの女性が、救われた話でもあった。
(やっぱり、電話の向こうは案件じゃない——人だ)
そう柊花は心の中で思い、ヘッドセットを整え、次の受信ボタンをクリックする。
今日も、どこかで誰かが助けを求めている。電話の向こうで。
それにひとつひとつ手を伸ばす。
「待ち呼重なってますー! 手が空いてる人、受電して!」
鈴村と大峰の声が重なり合う。
それが、柊花にとっては「なにかが変わった」と思えた。
こらえきれず、ふっと吹き出してしまう。
『大峰さんと、息があってますね』
手元でチャットを送る。
鈴村が首を振りながら急いでカタカタと手をすべらせる。
『気のせいですって!』
夕刻、退勤した柊花に、鈴村が声をかけてきた。
「よければ、飲みに行きませんか?」
「いいですよ。……浅見さんも誘います?」
「……そうですね——一連の件の、終わりに」
そうじゃないんですけど、と鈴村は小さく肩を落とす。
何も知らない柊花は、梓にメッセージを送る。
『お疲れ様ですー! 今晩空いてます? よければ飲みに行きません?』
即座に返信が返ってくる。
『もちろん! 鈴村くんもいるの?』
『はい』
メッセージを受け取った梓はにやりとした。
「……深野ちゃん、鈍くない? まぁ、いいか」
駅前の居酒屋のざわめきに、柊花と鈴村、そして梓がいた。
「——鳥海さんと大峰さんに、謝られたよ。まぁ、大峰さんなら、やると思ってた。こういうところ熱い人だったし」
ふっと苦笑いし梓は続ける。
「私が残した声、拾ってくれた人がいたんだって思えた。——不気味だったけどね」
梓はそうカラカラと笑い、グラスに口をつける。そして、呟く。
「深野ちゃん、鈴村くん。ありがとう——私が残した引き継ぎメモに気づいてくれて」
柊花は静かに頷く。鈴村は一瞬柊花を見て顔を赤くする。
「そして、深野ちゃん、鈍くない?」
「何がですか?」
「いや、——こっちの話」
柊花はわけがわからず首を傾げる。梓は、苦笑いし、口角を上げる。
店を出た三人を夜の静かな空気が包む。
柊花が、ぽつりと話す。
「夜が静かって、安心しますよね」
梓と、鈴村も頷く。
そして、梓が思い出したようにぽつりと呟く。
「倉橋さんも、今頃静かな夜を過ごせてたらいいな」
ふと、空を見上げる。
満天の星空が、夜空にさぁっと煌めいている。
「やっぱり、電話の向こうも、人がいるんですよね」
柊花が頷きながら口にする。
梓が静かに答える。
「そうだよ。電話の向こうは案件じゃない。人がいる」
——その電話の向こうは、誰ですか?




