読まれたなら、それでいい
翌朝、柊花は大きなあくびを抑えつつ、通勤電車に揺られていた。
なんで通勤客は多いのに、その割に電車は短いのだろう、とすし詰めの車内に飲まれつつ思う。
ホームへ降りると、やっと息ができる。しかし、人の波は止まらず、エスカレーターへと流されていく。
波に流されるまま改札を出て、ようやく自由に動けるのだ。
(浅見さん、大丈夫かな……藤村さんも)
そう昨日の話を反芻し、柊花は独りごちる。
満員電車の圧で削られつつも、足は会社の方へ向かってしまう。
今日はなぜか胸騒ぎがして一本早い電車に乗ってしまった。始業時間までかなりある。
足を一旦止め、駅前のカフェに行く。
ソファ席を見つけ腰を下ろし、スマートフォンから注文をする。
一息ついて、カフェの壁にある絵をなんとなく見る。
少し、歪んで見える。そんな気がしていたその時、カウンターに柊花の注文したコーヒーが置かれる。
今日は豆乳を入れたコーヒーにした。ソイラテより、純粋に豆乳が入ったコーヒー。
柊花は落ち着きたい時、それを飲む。
外は雨がぱらつき始めていた。
それを眺めながら、柊花は暖かさの中に豆乳の甘みがわずかにあるそれを口に含む。
(会社で何かなければいいけれど——)
一本前の電車に乗ってしまった自分の違和感に、なんだか嫌な予感がする。
そういう時の予感は、大抵当たる。執務室の静けさのような、嵐の予感のように。
マグカップを片付けて、柊花はカバンを肩にかける。
外に出ると、雨足がさらに強くなっていた。
通勤ラッシュの雑踏の中を、会社の方へ波をかき分けるように進む。
ビルのエレベーターの前に、大峰の姿が見える。
柊花は肝がひゅっと冷えるような感覚を覚え、わざとゆっくり進む。
(大峰さん、苦手なんだよなぁ……。言い方少し冷たくてきついし——この間の面談だって)
そう心の中で呟き、次のエレベーターで出勤した。
ロッカー室に入ると、社内が少しざわめいていた。
何があったのか。
柊花はとりあえず、執務室の自分の席へ座ると、鈴村が声をかけてきた。
「おはようございます。実は——フリーデハイムの履歴が、昨夜から止まっているそうです」
「夜中のいつもの『あれ』がですか?」
「昨日浅見さんに話を聞いた後——昨夜ぱったりと止まった、と夜勤から引き継ぎがあって」
鈴村は少し考えるような仕草をして、言葉を続ける。
「僕たちの行動を知っている誰かが、履歴を残していた可能性が高いです」
「鈴村さん、もしかして、なんですけど——私たちに読ませるため、だったんじゃないですか?」
「だとしたら——誰がこの履歴を夜中にあえて書いていた?」
鈴村が、共有ファイルを開き、仮想端末のアクセスログを調べる。
【2026/06/12 21:05】
誰かがアクセスしている。しかし、履歴はぱたりと止まっていた。
この時間帯、執務室へ残っている仮想端末アクセス権限者は限られる。
日勤は管理者も帰宅して既にいない時間。それより上の立場の人間——鈴村が考えている時、後ろから声がした。
「鈴村くん、フリーデハイムの件、まだ見ているんですか」
大峰の冷徹な声が降りかかる。
鈴村は、至って冷静に言葉を返す。
「いえ、少し追っている案件がありまして。あと——最近仮想端末を使うことって、ありますっけ?」
鎌をかけるつもりではない。しかし、大峰の眉が僅かに動く。
「……いや、ないな。そろそろ消すようにシステム部へ言ってもいいかもしれない」
少し早い口調で大峰が言葉を返し、背を向ける。
「特にフリーデハイムは」とこの前の朝礼で大峰がわざわざ強調したのは、なぜだったのだろうか。
なぜ、あのタイミングで出す意味があったのだろうか。数値とフローの話で、済むはずだ。
鈴村は、首を振り、コーヒーを買いに休憩室へ行く。廊下に物品点検表がかけられている。
それを覗き込むと、【大峰|2026/06/12 21:10 点検】と書かれている。
仮想端末にアクセスがあった時間帯、大峰はまだ社内にいたということだ。
鈴村の体が、一瞬固まる。
コーヒーを買い、執務室へ戻り、鈴村は柊花にチャットを送る。
『昨日、仮想端末にアクセスログがありました。社内に残っていた権限者として確認できるのは、大峰さんだけです』
柊花の目が一瞬丸くなっているのが見える。そしてキーボードに手をすべらせる。
『大峰さん、昨夜残ってたんですか? いつもはよっぽどのことがない限り私と退勤時間変わりませんよ』
大峰は仕事が早い。よほど大きな案件を抱えない限り、定時内で仕事を終わらせて帰るタイプだ。
そんな彼が残っていた。厄介な上席対応があったのか、それとも——。
鈴村は確信が持てないまま、チャットに返信する。
『一連の履歴が、大峰さんだとは断定はできません。証拠が足りない』
その後の執務室は、窓が茜色に染まるまで、静かな日常のざわめきで過ぎていった。
しかし、その通常通りが、何かの前触れのような不穏さを孕んでいる気がした。
その夜、浅見梓の名で履歴が増えることはなかった。
代わりに、入力者のない一行だけが、共有ファイルの片隅に残されていた。
【2026/06/13 20:00 入力者:該当なし 読まれたなら、それでいい】




