そして
今回はここまでです。
散策路に、昨日の雨の跡が残っていた。
石畳の目地に水がたまっていて、カロリーネはそれを避けながら歩いた。避けなかったのはエリザベータで、靴の底でそのまま踏んでいった。
「今日は何の視察ですか」
「散策路の維持状況です」
「記録官はいませんね」
「いません」
カロリーネが少し前を向いた。二人の歩く速度が揃った。
「勅書が出ました」
「はい。拝見しました」
「拝見した、というのは」
「様式第三〇二号の写しが財務局から届きます。その前に、宮内局から写しを一通いただきました」
カロリーネが問わなかったことを、エリザベータは補わなかった。誰が届けたかは、記録に残らないことだった。
しばらく、石畳を踏む音だけが続いた。
「テオドール侯爵から書状が来ました」
「どのような」
「馬が疲れたので次の視察は馬車で行く、と」
エリザベータが少し足を止めた。止めたのは一歩だけで、また歩き始めた。
「六十六歳が次の視察を前提にしています」
「そういう方です」
また沈黙があった。今度は短かった。
カロリーネが言った。
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「今回の件で、私は何をしたことになりますか」
エリザベータは答えなかった。答えないのではなく、考えていた。
「諸侯会議の議長として、職務を果たしました」
「それだけですか」
「記録にあることは、それだけです」
カロリーネが少し息を吐いた。
「記録にないことを聞いています」
エリザベータが前を向いたまま言った。
「記録にないことをこの場所で話すことは、私にはできません」
「なぜですか。記録官はいないはずですが」
「散策路は整備記録に残ります。誰がいつ通ったかは、記録の対象外ですが」
カロリーネが少し歩いてから、言った。
「殿下は本当に記録のことしか考えていないのですか」
「記録にないことは存在しません」
「存在しなくても、起きたことは起きた」
エリザベータが歩みを緩めた。緩めただけで、止まらなかった。
「カロリーネ侯爵は、今回、何を得ましたか」
「得たもの、ですか」
「諸侯として」
カロリーネが少し考えた。
「ロッテンブルク条款が、条款の外から動かせることが分かりました」
「それだけですか」
「陪席者が全会一致を動かせることも」
「それは私が得たことです」
「では」
カロリーネが少し口を閉じた。それから言った。
「諸侯として中央を牽制するためには、諸侯が動く必要があることが分かりました。今回は動きました」
「今後も動きますか」
「必要があれば」
「必要があれば、と」
「必要を誰が判断するかは、場合によります」
エリザベータがわずかに顔をカロリーネに向けた。向けたのは一瞬で、また前に戻した。
「分かりました」
それ以上は言わなかった。
散策路の突き当たりに、古い噴水があった。今日は水が止まっていた。維持工事の記録が、どこかの台帳に書かれているはずだった。
カロリーネが立ち止まった。
「殿下、最後に一つだけ」
「何ですか」
「最初に私がここに来た時、殿下は穀物の話をしました。エッカルト経由の穀物の話を」
「はい」
「あれは、私を動かすためでしたか」
エリザベータは噴水を見た。
「カロリーネ侯爵は穀物の流通に関心をお持ちと、そう思っただけです」
「思っただけ、ですか」
「南隣の侯爵が穀物の流通に関心を持つことは、自然なことです」
カロリーネが短く笑った。笑い声は小さかったが、本物だった。
「承知しました」
「何を承知しましたか」
「殿下が記録にないことを話さない理由が、分かりました」
エリザベータが振り返った。
「教えてください」
「記録にないことを話してしまうと、殿下が正直になってしまうからです」
二人はしばらく、止まった水の噴水を眺めた。
「水が止まっています」
「工事中のようですね」
「様式は出ていますか」
「確認していません」
「確認してください」
「はい」
カロリーネが踵を返した。来た方向に歩いていく。
「またいつか、穀物の話をしましょう」
「必要があれば」
「必要があれば、とは言いません。話したければ来ます」
エリザベータは返事をしなかった。
しなかったことが、返事だった。




