誰が行くか
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招集状の発送から三日後、カロリーネは議長として諸侯会議の非公式連絡をまとめていた。
招集状を受けたロッテンブルク侯爵家が応答するかどうか。それが確認できるまでの間に、もう一つの問いが各侯爵から届いていた。
「視察団を出すのか」
ロッテンブルク侯爵領に、直接赴く者を出すかどうか。誰も明言していなかった。しかし、誰もが考えていた。
カロリーネが各侯爵への書状の返信を読み終えた時、マリアンネが茶を置いた。
「アンナ・フォン・キルヒハイム侯爵からです」
書状を開くと、短かった。
「私が参ります。代理ではなく本人として。日程はカロリーネ議長の都合に合わせます。――アンナ・フォン・キルヒハイム」
カロリーネは少し考えた。東南部のキルヒハイム侯爵領からロッテンブルクまでは遠い。それでも本人が来ると言っている。
次の書状はテオドール・フォン・リンデンベルクからだった。
「老骨ゆえ速度には期待されないが、ロッテンブルク条款の原文に触れた世代として同行したい。なお記録係の書記を一名連れて行きたい。様式の問題が生じた際に備えて。――テオドール・フォン・リンデンベルク」
六十六歳が、馬に乗って来ると言っていた。
ヨハン・フォン・オーバーハウゼンからは一行だった。
「約束が守られていないなら、直接確認する。それだけです」
ゲオルク・フォン・ミッテルバッハからは少し長かった。
「私は行かない。私が行くとロッテンブルク条款の道路管理条項との関係で余計な解釈問題が生じる可能性がある。信頼できる代理を一名出す。代理には議決権はないが、現地の状況確認という実務的な目的であれば十分と考える。費用は各自持ちで良いか」
実務家だとカロリーネは思った。正しい判断だった。
残りの侯爵家からは、代理を出す、あるいは静観するという旨の返答が続いた。アルテンブルクからは「代理を出す」。フォン・グライフからは「今回は見合わせる、ただし情報提供は行う」。他家からも代理か静観か、という判断が続いた。
カロリーネは返答を並べた。
本人が行くのはカロリーネ自身、キルヒハイム、オーバーハウゼン、リンデンベルクの四名。代理が出るのはミッテルバッハとアルテンブルクの二家。他は情報提供か静観。
「少ないですね」とは思わなかった。本人が四名も来るという事実の方が、カロリーネには重かった。
*
出発の朝、エリザベータからの書状が届いた。
「視察に同行することは立場上できません。ただし、様式第五〇一号の写しを携帯してください。諸侯会議の正式決議による視察であることが、現地で問われた際の根拠になります。書類は整えました。――エリザベータ・ルイーゼ」
書状の下に、三通の写しが添えられていた。諸侯会議決議録の写し。招集状の写し。そして財務局の調査記録の写し。
カロリーネが最後の一通を見た時、マリアンネはいなかった。代わりに、自分の書記官が傍らにいた。
「財務局の記録まで」
「必要な時に必要なものが手元にある方が良いということでしょう」
書記官が馬の準備を確認しに行った。カロリーネは書状を折り畳んだ。
同行することはできない、と書いてあった。書いてあること以外のことは、書いてなかった。
*
ロッテンブルク侯爵城の正門に到着したのは、出発から四日後の午後だった。
一行は六名だった。カロリーネ、アンナ、ヨハン、テオドール、そしてミッテルバッハとアルテンブルクの代理人各一名。テオドールの書記官が馬の後ろに揺られながらついてきていた。七名分の馬の足音が城門の前で止まった。
待っていたのはグリュンだった。
前回の財務局調査員と同じ場所に、同じように立っていた。後ろの兵の数が、前回より多かった。
「これはまた、ご壮観なことで」
カロリーネが前に出た。
「諸侯会議議長、カロリーネ・フォン・エッカルトです。諸侯会議決議第三号に基づく、クラウス・フォン・ロッテンブルク侯爵の議決権確認のための訪問です」
書類を差し出した。グリュンが受け取った。
前回と同じ動きだった。受け取った、という事実が生まれた。
「侯爵は体調不良です」
「承知しています。議決権の確認は、侯爵本人が意思表示できるかどうかの確認です。長時間を要しません」
「その確認方法について」
「侯爵会議議長としての質問に、侯爵が返答できるかどうかを確かめます。それだけです」
グリュンが少し間を置いた。
「明日の朝であれば」
「今日の午後をお願いしたい」
「侯爵の体調が」
ヨハン・フォン・オーバーハウゼンが初めて口を開いた。
「グリュン家宰」
声は穏やかだったが、止まった。
「我々は四人の侯爵本人と代理二名で来ています。ロッテンブルク侯爵は私の先輩です。先輩の顔が見たくて来ました。それだけです」
グリュンが、ヨハンを一度だけ見た。
「……今日の午後でご用意します」
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通された応接室は、財務局の調査員が案内された台帳室とは違った。天井が高く、窓が二つ。椅子が六脚。
椅子の一つに、クラウス・フォン・ロッテンブルクがいた。
前回の報告の通りだった。白髪。右半身の傾き。目は開いているが、焦点がゆっくりとしか動かない。グリュンが背後に立ち、ルードヴィヒが離れた位置の壁際にいた。
カロリーネが前に進み、正面に立って一礼した。
「お久しぶりです、クラウス侯爵。先の諸侯会議では席が空いておりましたので、参りました」
クラウスの目が、ゆっくりとカロリーネに向いた。
「……」
口が動いた。言葉は出なかった。
アンナ・フォン・キルヒハイムが静かに前に出た。彼女は三十六歳で、侯爵家に生まれて父の急逝を経て当主になった人間だった。老いた人の前に立つことに、慣れていた。
「侯爵。私はアンナ・キルヒハイムです。一つだけお聞きします」
膝をついて、目線を合わせた。
「今、ここにいるのがわかりますか」
クラウスの目が、アンナに止まった。
瞬きが、一度あった。
室内が完全に静止した。
テオドール・フォン・リンデンベルクが、後ろで書記官に何かをそっと言った。書記官がペンを走らせた。
グリュンが口を開いた。
「侯爵は面会に応じておられます。これにて――」
カロリーネが遮った。
「グリュン家宰。議長として確認します」
グリュンを見ずに、クラウスを見たまま言った。
「クラウス侯爵。諸侯会議に参加できますか。参加できるのであれば、何らかの形でお示しください」
室内がまた静止した。
クラウスの右手が膝の上にあった。グリュンが身をわずかに前に傾けた。
クラウスの左手が、ゆっくりと上がった。
右手ではなかった。左手が、膝の高さほどに持ち上がって、そこで止まった。意図的な動作なのかどうか、判断できなかった。
アンナが膝をついたまま動かなかった。
ルードヴィヒが壁際から一歩前に出た。
「父は議決権を行使する意思があります。ただし、代理によって」
カロリーネが初めてルードヴィヒを見た。
「代理の指定は、侯爵本人が文書で行う必要があります」
「父は文書に署名できます」
「署名できることと、その署名の意思決定能力は別の問題です」
ルードヴィヒが一歩止まった。
グリュンが静かに言った。
「侯爵はご自身の意思で署名されています。それは財務局の記録にもある」
「記録にあることは承知しています」とカロリーネは言った。「それが問題なのです」
応接室の中で、三つの立場が三角形を作っていた。カロリーネが頂点に立ち、グリュンとルードヴィヒが両底辺にいた。その真ん中の椅子に、クラウスが座っていた。
テオドール・フォン・リンデンベルクが、ここで初めて前に出た。
六十六歳の老侯爵が、クラウスの前まで歩いてきて、椅子の隣に立った。
「クラウス。私はテオドール・リンデンベルクです。あなたとは二十年以上の付き合いがある」
クラウスの目が、テオドールに動いた。今度は少し速かった。
「ロッテンブルク条款のことを話したいと思ってきました。二百年前にあなたの家が守ったものの話を」
グリュンが口を開きかけた。テオドールが静かに片手を上げた。
「私は話しているだけです。記録には残りません。話しかけることを禁じる規定は、どこにもありません」
グリュンが手を下ろした。
テオドールがクラウスの隣に腰を下ろして、静かな声で続けた。
「条款は、当主が条款を守れる状態にあることを前提としている。あなたはそれを誰よりもよく知っているはずだ。あなたの家が守り続けてきたものが、今何に使われているか、あなたは分かっていますか」
クラウスの目が、細くなった。
何かが、わずかに動いた。
それが何なのかを判断することは、この部屋にいる誰の職務でもなかった。
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一行がロッテンブルク侯爵城を出た時、日が傾いていた。
宿の手配はミッテルバッハの代理人がすでに済ませていた。城から半刻の距離の街道沿い。テオドールの書記官が記録を馬上でまとめていた。
ヨハン・フォン・オーバーハウゼンがカロリーネの横に並んだ。
「何かわかりましたか」
「いくつかのことが」
「何が」
「グリュンは条款を使って時間を稼ぐ気でいる。ルードヴィヒは自分が正当だと信じている。そしてクラウス侯爵は」
カロリーネが少し止まった。
「気づいています」
ヨハンが黙っていた。
「何かに気づいていて、それでも動けない。それが病なのか、それとも別の何かなのか、私には判断できません」
「テオドール侯爵に何を期待していましたか」
「条款の話をすることで、クラウス侯爵に選択肢があることを伝えたかった。伝わったかどうかは分かりません」
アンナ・フォン・キルヒハイムが後ろから追いついてきた。
「瞬きはしました」
「はい」
「あれは返答だと思いますか」
「私が思うかどうかは関係ありません」
カロリーネが馬を進めながら言った。
「あれがテオドール侯爵の書記官に記録されました。諸侯の訪問に対して侯爵が反応を示した、という事実として。それで十分です」
アンナが少し間を置いた。
「十分ではないと思います」
「十分ではない。でも、何もなかった場合と比べれば、一つ記録が増えました」
街道の石畳が夕光を受けていた。六名と七頭の馬が、王都の方角に向けて歩き続けた。
テオドールだけが、少し遅れていた。老いた馬に乗って、手の中で何かを考えているようだった。
書記官が追いついて聞いた。
「先生、記録に何と書きますか」
テオドールが少し考えた。
「訪問に応じた。反応があった。以上だ」
「それだけですか」
「それ以上のことを私には書けない。私は見たことを書く。見たことの意味は、読んだ者が考える」
書記官がペンを走らせた。
「一行追加しますか」
「何を」
「条款は、守れる者がいて初めて機能する。以上」
テオドールが少し笑った。
「それは私が言ったのではなく、あなたが書いたことにしなさい」
「なぜですか」
「私が言ったと記録されると、重くなりすぎる」
書記官が少し考えてから、括弧書きで「記録者注」と前置きして書いた。
夕暮れの街道に、馬の足音が続いた。




