三十日目
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発覚から三十日が経過した日の朝、枢密院事務局長ハインリヒ・フォン・ハルテンが条文集を持ってエリザベータの執務室に現れた。
「臨時諸侯会議の招集要件が満たされました」
「確認してください」
ハインリヒが条文を開いた。
「建国八十七年制定、諸侯会議規則第十二条。十二諸侯の一が条約義務の履行を三十日以上停止した場合、枢密院の審議に先立ち、臨時諸侯会議を招集しなければならない。招集は枢密院が行うが、議長は諸侯互選による。王族は陪席できる」
「陪席、ですか」
「議決権はございません。ただし発言は認められております」
エリザベータはしばらく考えた。
「招集通知の様式は」
「様式第五〇一号です。本日付で発送します。招集期間の規定は通知発送から十日以内です」
「十日後に、全員集まれますか」
ハインリヒが少し間を置いた。
「規定上は招集すれば足ります。不参加の場合も、会議は成立します」
「分かりました」
エリザベータは窓の外を見た。
「ロッテンブルク侯爵領への招集通知も発送してください」
「……規定通りに発送します」
誰も来ないかもしれない、と二人とも思っていた。それは記録されなかった。
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十日後、諸侯会議の場となった枢密院議場に、十一名が集まった。
ロッテンブルク侯爵を除く全員だった。
これは記録された。
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議長互選は二十分で終わった。カロリーネ・フォン・エッカルトが選ばれた。南隣の当事者であることを理由に辞退を申し出たが、他の諸侯から「当事者に近いほど事情を知っている」という理由で押し切られた。カロリーネは承諾した。その顔に表情はなかった。
エリザベータは議場の端、陪席者席に座った。マリアンネが後ろに立っている。記録官が脇に控えた。
議長カロリーネが開会を宣した。
「本日の議題は、ロッテンブルク侯爵領による条約義務の不履行に関する諸侯としての対応方針です。まず、中央からの報告を受けます。財務局長」
フェリックスが立った。
「先月末分の上納が未着。督促様式第二一三号に対し、三通の重複返信あり。法務局照会、枢密院召喚、調査員派遣を経て、当主への面会は成立。当主より『対処する』との言葉を得た。その後、様式第二二〇号の提出なし。以上が財務局の記録です」
短かった。事実だけだった。
フェリックスが座ると、議場がわずかにざわめいた。
「三通とはどういうことですか」
声を上げたのは西南部の老侯爵、テオドール・フォン・リンデンベルクだった。七十近い、白髪の男だ。
「当主と嫡男と家宰が、それぞれ別の内容で督促への返信を出したということです」
ゲルハルトが補足した。
「つまりクラウス侯爵は返信を書いたのか」
「書類上は、そうなります」
「ならなぜ召喚に応じない」
「それは記録から確認できません」
リンデンベルク侯爵が机を叩いた。叩いた音が記録されることはなかったが、議場の空気が変わったことは全員が知った。
「中央は何も分かっていないということか」
カロリーネが議長として割って入った。
「記録にないことを議論することはできません。記録にあることを確認した上で、各侯爵からの情報提供を受けます」
「情報提供」
「諸侯としての見聞を共有する場です。これは諸侯会議規則第十七条に基づく情報共有手続きです。発言者は氏名と情報の出所を明かしてください」
リンデンベルク侯爵が少し黙ってから、座り直した。
「続けてください」
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最初に立ったのは、東部の壮年侯爵エーリヒ・フォン・グライフだった。
「ロッテンブルク領との定期取引を行っている商人から聞きました。当主クラウス侯爵は、二か月近く前に脳の発作で倒れたと。右半身が動かず、判断が困難な状態だと」
議場が静止した。
「出所は商人の話です。様式はありません」
カロリーネが静かに言った。
「記録に残す形での情報提供として受理します。ただし、様式外情報として区分します」
「区分しても、聞いてしまったものは消えませんな」
リンデンベルク侯爵がそう言った。誰も反論しなかった。
次に立ったのは北東部の侯爵、ヨハン・フォン・オーバーハウゼンだった。
「私も同様の話を聞いています。加えて、領内でルードヴィヒ様と家宰グリュンが対立しているという話も。兵の指揮権がグリュン側にあると」
「出所は」
「旅の医師です。ロッテンブルク領で診療を行った者から、私の家医が聞きました」
「様式外情報として受理します」
続いて三名が立った。出所は異なった。巡回商人、街道の宿の主人、通りがかりの吟遊詩人から聞いたという者もいた。内容はほぼ一致していた。
当主は倒れている。領内が割れている。文書が出せない状態にある。
カロリーネがそれらを全て「様式外情報」として受理し続けた。議場には様式外情報が積み上がった。
やがて、リンデンベルク侯爵が言った。
「カロリーネ侯爵、あなた自身は何も知らないのですか。南隣でしょう」
カロリーネが一瞬だけ、視線をエリザベータに向けた。エリザベータは陪席者席で、表情を動かさなかった。
「私も商人から同様の話を聞いています」
「それだけですか」
「私が持っている情報の出所は商人です。様式はありません」
「では財務局の調査員は何を見てきたのですか」
フェリックスが答えた。
「当主への面会が成立しました。『対処する』という言葉を得ました。台帳の不備を確認しました。それが記録の全てです」
「面会は成立したのに、なぜ何も変わらないのですか」
「それは記録から判断できません」
リンデンベルク侯爵が額に手を当てた。
「つまりこの場にいる全員が、クラウス侯爵が倒れていると知っているのに、記録にはどこにもないと」
「様式外情報として受理されています」
「様式外では意味がない」
「そうです」
議場に奇妙な沈黙が落ちた。
全員が知っていることを、誰も言えない状態だった。言えないのではなく、言ったところで記録に残らないからだった。
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沈黙を破ったのは、これまで一言も発していなかった北部の侯爵、ヨハン・フォン・オーバーハウゼンだった。六十代、温和な顔立ちで知られる老侯爵だ。
「議長、一つ聞いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「ロッテンブルク条款とは、何のためにある条款ですか」
議場がまた静止した。
「南部の自治権を保護するためです」
「誰の自治権を」
「ロッテンブルク侯爵家の」
「ロッテンブルク侯爵家が、自治権を行使できる状態にあることが前提ですな」
「……そうなります」
「では今、条款はロッテンブルク侯爵家を守っていますか。それとも、ロッテンブルク侯爵家の内部の誰かが、条款を盾にして他の誰かを守ることを妨げていますか」
議場が完全に静止した。
オーバーハウゼン侯爵が続けた。
「条款は建国二十年の制定です。二百年近く、誰もこの問いを立てなかった。立てる必要がなかったからです。私は条款を廃せと言っているのではない。条款が想定していなかった事態が生じたと言っています」
カロリーネが、議長として言った。
「オーバーハウゼン侯爵、この発言は会議記録に残ります」
「残してください。私は二百年後にも残ってほしいと思って言っています」
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次の発言者を誰も手を挙げないまま、少しの時間が経った。
エリザベータが手を挙げた。
陪席者の発言権は認められている。議場の全員がそちらを向いた。
「発言を許可します、殿下」
「ありがとうございます、カロリーネ議長」
エリザベータは立った。
「一点だけ確認させてください。諸侯会議として、ロッテンブルク侯爵家の当主の健康状態を公式に確認することは、規則上可能ですか」
ゲルハルトが答えた。
「諸侯会議規則に、そのような条文はありません」
「ないということは」
「禁止する条文もありません」
「ロッテンブルク侯爵領は、諸侯会議の構成員です。構成員の議決権行使の可否を、会議が確認することは」
ゲルハルトが少し考えた。
「議長の裁量の範囲であれば、可能と解釈できます」
カロリーネが視線をエリザベータに向けた。
「議長の裁量、と」
「そうです。今この場で、議長が招集通知を発することは可能です。ロッテンブルク侯爵家に対して、構成員としての議決権確認のための出席を求める。様式外の情報が重複していることを踏まえ、諸侯会議として確認が必要と判断した、という形で」
「それは中央の照会とは異なりますか」
「異なります。これは諸侯同士の確認です。ロッテンブルク条款は中央の介入を制限しています。諸侯会議の招集は、中央の行為ではありません」
議場がざわめいた。
リンデンベルク侯爵が言った。
「つまり、条款の抜け道ですな」
「条款の想定外、です」
オーバーハウゼン侯爵が小さく笑った。本物の笑いだった。
カロリーネが議長として全員を見渡した。
「諸侯会議として、ロッテンブルク侯爵家に対して議決権確認のための出席招集を発することを、諸侯各位に諮ります。賛否を」
挙手が行われた。
十一の手が、全て挙がった。
記録官がそれを書いた。
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会議が閉会する前に、リンデンベルク侯爵が言った。
「殿下、一つ聞いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「今日の会議で、殿下は陪席でしたな」
「はい」
「陪席者が提案を出して、それが全会一致で通りましたな」
「そうなりましたね」
リンデンベルク侯爵が白髪の頭を少し傾けた。
「陪席というのは、ずいぶん発言力のある立場ですな」
「議決権はございません」
「ございませんね」
二人はしばらく向き合った。
「それだけです」
リンデンベルク侯爵は笑わなかったが、視線には何か穏やかなものがあった。
「ありがとうございます、殿下」
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議場を出たところで、カロリーネが一度だけエリザベータの横に並んだ。
「殿下」
「はい」
「先ほどの提案は、いつ考えましたか」
エリザベータは少しの間、廊下の石畳を見た。
「必要なことが必要な順に出てきただけです」
カロリーネが少しの間を置いた。
「承知しました」
それだけで、二人は別の方向に歩いた。記録官がエリザベータの後をついてきた。マリアンネが脇に戻ってきた。
「殿下」
「何ですか」
「陪席者が全会一致を引き出しましたね」
「議決権はありません」
「ございませんね」
マリアンネは「お好きなように」と言わなかった。それが、今日という日への最大の評価だとエリザベータには分かった。
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翌日、諸侯会議名義の招集状が様式第五〇一号の書式で、ロッテンブルク侯爵城に向けて発送された。
差出人は枢密院ではなかった。
諸侯会議議長、カロリーネ・フォン・エッカルトの名義だった。
受取人は、クラウス・フォン・ロッテンブルク侯爵。
期限は、十日。
王女が出てこないので別作品にしていますが、よろしければ
大陸協調記録
https://ncode.syosetu.com/n4801lx/




